イクチヨモ、カナシキヒトヲ。 「なあ、日本ってそんなにいい国なのか?」 さっきの席に戻って新しく買ったエスプレッソを飲んでいると、向かい側で俺の日本での予定表を見ていたディックが、不意にそんなことを質問してきた。 「…何だよ、いきなり」 「PBも一昨年の八月に日本へ行ったんだ」 「ピービー?」 何だそれ。 一番最初に思いつくのは元素記号の「pb」(鉛)だけど、他にもあるよな。 普通預金通帳の「Pass Book」とか、祈祷書の「Prayer Book」とか…、どれも当てはまりそうにないな。 「誰かの渾名か?」 「トミーのことは知ってるだろ?」 「お前と同様に知らない奴なんかいないと思うんだが」 トミーはディックと同じ研究室で働いている美形の日本人だ。 まだ成人していないがディック以上に幼い頃から優秀で、引く手数多らしい。 渾名が日本人らしくないのは名前が英語圏の人間には発音し辛かった為、最初と最後の文字をとったと聞いている。 「PBは”Peach Blossom”の略。トミーの恋人だよ」 「へえ、あの美青年に恋人なんていたのか。同じチームの人間としかまともに喋らないって聞いたけどな」 それにしても、渾名が「桃の花」って…。 俺の記憶が正しければ花言葉は「私は君の虜」だと思うんですけど、誰がそんな小っ恥ずかしい渾名を考えたんでしょうか。 「トミーがそうなったのはPBが日本へ行ってからじゃないかな」 「曖昧だな」 「トミーはPBが日本へ行くまでここの研究室には殆ど来なかったから、付き合いがなかったんだ」 「……うん? それじゃあ、どうしてお前はPBの存在を知ってるんだ?」 トミーはPBが日本へ行くまで殆どディックの研究室に顔を出さなかった。 しかし曖昧な表現をする割にディックの口調は以前からトミーを知っている者のそれだし、PBのことを間接的に聞いたようには思えない。 カップをテーブルの上において首を傾げると、ディックは俺から視線を外し、空を見上げた。 「十三の時に半年くらい、同じ研究室にいたんだ」 「…ちょっと待て。十三? トミーはお前より六歳若いんだろ? 七歳で大学の研究室に呼ばれたのか?」 七歳で大学に入学した天才児の話なら聞いたことがあるが、大学の授業さえもすっ飛ばして研究室に入った子供の話なんて全く知らんぞ。 年齢を偽っていないのなら、化け物じゃないのか、トミーって奴は。 「トミー側からの援助もあったからね。PBも七歳だったよ」 「……天才同士かよ」 俺がきっと天才同士でしか共感出来ないことが沢山あるんだろうなあとか縁もゆかりもないことを考えている間に、ディックはその時のトミーやPBの様子を話し出した。 爽やかな容姿とは裏腹に冷たい雰囲気を持つトミーが、PBには見守るような温かい表情を見せていたこと。 平凡だが少女のような顔立ちをしたPBの髪が染めたとは思えない程に綺麗な桃色をしていたこと。 (”Peach Blossom”は髪の色が元らしい) そして実はPBが少女ではなく少年で、二人とも日本人の割りに身長が高かったこと。 今の研究はあの時の研究結果がなければ出来なかったということ。 トミーと会ったことは一度しかないが、平凡極まりない自分の身近にそんなに凄い人間がいたのかとちょっとズレた感想を抱いている俺に、空から視線を戻したディックは再び言った。 「アメリカでの生活に馴染んでも行きたくなるほど、いい国なのか?」 真っ直ぐに見つめる碧色の瞳。 本当に日本へ行ってしまうのかという問いに聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。 PBが恋人を残して日本に行った理由は知らない。 天才の考えることはわからないし、天才の好奇心をそそるものも想像がつかない。 でもアメリカ生まれのアメリカ育ちならきっとアメリカに飽きたのではなく、何らかの目的を持って出国したんだろうと思う。 新しい何かを得て大切な人の前に戻って来たいんだろうと思う。 だから、ディック。 「来年の春に来いよ。世界中が絶賛する桜を見せてやる」 今回も俺は、「さよなら」を言わない。 NEXT * CHAP |