イクチヨモ、カナシキヒトヲ。 「…、…っ‥」 多分泣いてはいないんだろうけれど、衣服越しにディックの震えが伝わってくる。 何かを堪えるような吐息も薄れることなく、俺の皮膚と聴覚に届く。 それでも、どんなに近くても、ディックの胸中がダイレクトに響いてくることはない。 受信者の俺が異常だからだ。 送信者がどんなに正常であっても、受け取る側が正常でなければ送られたものは宙で分解されてしまう。 特に恋愛感情は俺にとって蓋の開けられない箱だった。 自分に向けられた言葉だからと安易に受け取るけれど、何の施錠もされていないはずの箱を開ける方法がわからず、わざわざ訊いてまで開けたいとも思わず。 アキやディックに対してだけでなく、今まで付き合った多くの女性に対しても常に受け取る側だった俺は、いつしか当たり前のように箱を未開封のまま溜め込むようになっていた。 自分への好意を自分の感覚で理解することに意味を見出せなかったからかもしれないし、客観的な感覚でわかっていれば付き合うことに不自由しないと感じたからかもしれない。 勿論アキに口説かれるまで同性愛という単語は知識としてしか俺の中に存在していなかったから、アキの箱には興味を持って開けてみようとしたけれど、万人から求められていると言っても過言ではない人間であることを考えると、女性から貰った箱より数倍難解な割りに大して面白くもなさそうな気がしてしまって、結局同じことを繰り返しただけだった。 相手の言動を鏡のように返すという恋愛方法をとる俺がアキ相手に二年間も持ったのは、偏に男同士だったからだろうと思う。 愛するよりも愛されたいと願う女性に対して、良くも悪くも俺はあっさり過ぎたんだろう。 アキと付き合っても俺は変わらなかったが、それでも一つだけわかったことがある。 恋愛感情若しくはそれに類似したものが詰まった箱が開くのは、きっと、言葉では伝えられない想いが俺の意思に関係なく相手にぶつかろうとした時だ。 「――…ディック」 相手の言葉でさえまともに理解出来ない人間が相手の胸中を感じ取ることは不可能に近い。 けれど。 掴んだ背中のシャツを時折縋るようにきつく握りしめるから、それに応えるようにディックの大きな身体を抱きしめた。 「お前には悪いけど、俺はお前と友達になれて良かったと思ってるよ」 「…っ、俺だって、良かったと思ってる」 「‥そうか」 「お前を好きになったこと、後悔なんてしてない」 「、………お前も十分性質悪いよな」 そういうことを言うから、俺はお前をただの友人として突き放せないんじゃないか。 日本にいた時の友人なら告白も「勘違いじゃないのか」って受け流すのに。 「安心しろ。お前ほど性質が悪い男はそうそういない」 「どんな安心の仕方だよ」 背中に回されていた腕から力が抜け、ディックが身体を離す。 真っ直ぐに目を見てからかうように笑うから、俺も口角を上げて笑い返した。 ディックは以前、冗談めいた口調でアキより先に俺と出会いたかったと言ったことがある。 「初めて告白した男が俺だったなら、俺がカナと付き合ってたかもしれないのに」と。 だけど俺は、先に出会ったのがアキで良かったんじゃないだろうかと思っている。 アキと付き合った過去がなければディックに自分が普通でないことを喋ろうとは思わなかったし、親友のような関係になることもなかったと思うからだ。 それに初めて同性に告白されたのが高校生の時ではなく大学生の時だったら、場所が同性結婚が認められているアメリカということもあって、俺はディックと向き合おうとすらしなかっただろう。 だから、今までの出会いの順序はこれで良かったのだと思う。 NEXT * CHAP |