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キス魔笑顔だ。05



 カ リ カ リ ......

 シ ャ ッ シ ャ ッ ......

 写生する音だけが響く、静かな美術室。

 僕にとって絵を描いている空間はある意味「聖域」で、その場に居ても違和感のない人物は随分と限られている。

 親友の涼一、数学教師のゼンちゃん、美術部顧問の斉藤(サイトウ)先生。

「こーうせーんぱーいっ!!!」

「っ!!?」

「……はは、また来たね、柳くん」


 ――当然、煩くてかなわない馬鹿野郎なんて、論外の中の論外だ。





キス魔笑顔だ。




「香先輩!! こんにちはっ!」

「ごめん、涼一。窓とカーテン閉めてもいいか?」

「ええっ!? ちょっ、酷いですよ! 先輩!!」

「煩い」

「だって俺、香先輩が言った通り、ちゃんと部活がない時に来てるのに…っ!」

「知るか。僕は部活がない時なら来てもいいなんて、一言も言ってない」

 不覚にも準備室で柳と顔を合わせてしまったのは、一昨日の金曜日のこと。

 それぞれが勝手に…と言うか、僕と涼一以外はロクに活動していない美術部に「何曜日の何時から何時までが部活」という、運動部のような決まりがあるはずもなく、宿題や予定がないのなら土曜日でも日曜日でも、僕と涼一は美術室で絵を描いている。

 夕食の時に柳に会ってしまったことを交えつつ、久しぶりに写生をしたことを涼一に話したら、「なんか、僕も描きたくなっちゃったなあ」と返ってきたので、昨日も今日も美術室で写生しているわけなんだけど……。

 あの日、勝手に解釈して嵐のように去って行った勘違い野郎こと柳は、昨日の昼間、僕らがそろそろお昼でも買いに行こうか…と考えていた頃に、

 「香先輩、こんにちは!! これからお昼ですか? 俺、今昼休憩なんですけど、よかったら一緒に食べませんか?」

 と、突然窓から顔を出し、

 「誰がお前と一緒に食べるか!」

 と、僕が間髪容れずに拒否したにも関わらず、今日もまた、こうして顔を出しに来ている。

 ………非常に迷惑だ。

 迷惑極まりない。

 コイツはどこまで僕が過ごす場所を煩くすれば気が済むんだろう。

「そんなっ…!」

「そんなもこんなもない。部活の連中と食べればいいだろ」

 部活動も学年も違う僕には柳と一緒にお昼を食べなければならない義務なんてないし、義理だってない。

 一緒に食べたいと思わないのなら一緒に食べないのが当たり前だろう。

 僕は文句を言っている柳から視線を外すと、薄く苦笑いを浮かべている涼一に歩み寄った。

「ごめん、涼一。購買に行こう?」

「…うん………あ、」

「? どう――――」

「先輩っ!!」

「…!!??」

 な゛っ……!?

「馬鹿野郎ッ!!! 外靴で入ろうとするヤツがあるか!!」

 僕越しに背後の柳を見遣った涼一が目を丸くしたことが気になって振り返った僕は、スパイクを履いた足を窓枠に上げている柳の姿を見た瞬間にそう叫び、慌てて駆け寄るとその焦げ茶色の頭を思い切り引っ叩いていた。

「靴を脱がなきゃならないことくらい、小学生だってわかるだろうがっ!!」

 まったく、一体何を考えているんだ、この馬鹿は。

 泥のついたスパイクで入ろうとするなんて、本当に有り得ない。

 馬鹿以前の問題だ。

 大体、そんなに美術室に入りたいなら昇降口まで回って上履きに履き替えるか、それが面倒ならその泥で汚れたスパイクを脱いで靴下で入ればいいことだろう。

 急いでも急がなくても、生き物じゃあるまいし、美術室がお前から逃げるわけないじゃないか。

 …というか、いきなり足でも生えて逃げ出したら恐ろしいことこの上ないぞ。

 ああ、でも、もしここにコイツが居付いたりしてそれが学園の煩い連中に知れたら、落ち着いて過ごせる場所が校内から無くなってしまうから、いっそ僕(と涼一)を入れたまま静かに逃亡でもかましてくれれば嬉しいかもしれない。

 大きな振動がなければ集中して描けるし、美術室内の物の写生に飽きたら涼一をスケッチすればいいし。

「すみません……」

 そんな非現実的なことを考えながら、柳のスパイクによって土のついた窓枠を流しに干してある雑巾の中から選んだ一番汚いそれで綺麗にしていると、顔を見なくても沈んでいるとわかる声が上から落ちてきた。

「………」

 チラリと盗み見ると柳は明らかに凹んでいて、無いはずの尻尾と耳がこれ以上ないくらいショボンと垂れているように思えた。

 ……自分より十センチ以上身長の高いヤツがしょ気てる姿なんて気持ち悪いというか、見たくないというか、デカイ図体でだらしないというか…。

 なんだろう、この気持ちは。

 僕はちっとも悪くないはず…いや、実際悪くない。

 悪くないのに、何故だか妙に罪悪感が伸し掛かってくる。

 金曜日と同じでコイツを可哀相だと思う要素なんて何もないとわかっていたけれど、僕はなんと声をかけたらいいのか、わからなかった。

 ♪ 〜 ♪ 〜 ♪

 無言のまま汚れた雑巾を洗っていると、後方で携帯の着信音が鳴り響いた。

 一番聞き慣れた音楽に、涼一の携帯にメールを送ってきた人物がゼンちゃんであるとわかる。

 すぐに携帯を開いてメールの文面を読み始めた涼一は、項垂れている柳を一瞥してから僕と視線を合わせた。

「香、お昼を一緒に食べないか、だって」

 一応、人前では「善乃」の「善」から「ゼン」「ゼンちゃん」と言うあだ名で会話をするけど、聞き耳を立てなくても聞こえる距離に居る柳のことを気にしてか、涼一はゼンちゃんの名前を出さなかった。

 付き合っている涼一本人がそう判断したなら僕が裏切るわけにはいかないと、僕もゼンちゃんの名前を出さずに答える。

 厳しく罰する規則もないこの学園では、涼一とゼンちゃんが付き合っていることは既に公然の秘密となりつつあるんだけど。

「僕も?」

「うん」

 ゼンちゃんが涼一をお昼に誘うということは、つまり、ゼンちゃんが部屋で何か料理を作るということだ。

 休みの日でも二人が食堂の同じテーブルにつくことはないから、一緒にご飯を食べるなら場所はゼンちゃんの部屋以外にない。

 僕も何度かそこでゼンちゃんの手料理を御馳走になったことがある。

 生徒が教員寮に入ればそれなりに目立ってしまうけど、幸いゼンちゃんの部屋は一階の一番隅だから窓からこっそり入れるんだ。

「どうする?」

「…嬉しいけど、今回は遠慮するよ」

 ゼンちゃんは料理上手だから、誘ってもらえたなら有難く御馳走になりたい。

 でも、このタイミングでゼンちゃんが涼一だけでなく僕も一緒に、と言うメールを送ってきたのは、柳の件で僕のことを涼一と同じくらい心配しているからだろう。

 本当、二人共心配性で困ってしまう。

 僕はもっと二人でいる時間を大事にして欲しいのに。

 二人から冷たく突き放されたら頭の中は真っ白になってしまうだろうけど、ここまで心配されると申し訳ない。

「香、遠慮なんて――――」

「いーからいーから」

「香‥」

「本当は一分一秒でも長く会ってたいんだろ?」

「っ、香!」

 最近では随分見慣れてしまった心配顔の涼一の肩を後ろから掴んでドアの前まで連れて行った僕は、まだ何か言いたげな涼一の耳元で柳に聞こえないように囁いた。

 途端、頬を赤く染めた涼一ににっこりと笑いかけ、開錠する。

「また今度誘ってって言っといてよ。な?」

「…………ゼンが誘っても教えないから」

 涼一はどうやら本気で僕のことを可愛いと思っているらしいけど、僕にしてみれば涼一の方がよっぽど可愛い。

 褒め称えられるほどに整った綺麗な顔立ちより、その性格の可愛らしさが涼一の魅力だと思う。

 中身を見て涼一を好きになったゼンちゃんは本当に尊敬すべき大人だ。

「うん、いいよ? 僕は涼一とゼンちゃんが一緒ならそれだけで満腹だから」

 ――大好きな人二人が一緒に幸せになってくれるのなら、これ以上の喜びはない。

「……香、いつからそんなに恥ずかしい人になったの」

「涼一がゼンちゃんの隣で幸せそうに笑った時」

 涼一のあの笑顔を見た時、僕はきっと好きな人の隣で笑っている涼一本人より幸せを感じた。

「―――――」

 耳まで赤くしてしまった涼一は、眉間に皺を寄せて僕を睨みつけてくる。

 でも、正直全然怖くない。

 むしろ可愛いとしか思えないよ。

「ほらほら、早く行かないと。待ちくたびれてヨボヨボの御爺さんになっちゃったらどうするんだよ」 

「…ゼンはヨボヨボになっても格好いいんだよ」

「それはそれは、失礼致しました」

 桜色の唇を尖らせる涼一に、慇懃無礼に頭を下げる。

 そのままにこにこ笑って送り出すと、足を止めた涼一は首だけで僕を振り返って。

「―――香、ありがとう」

 とても綺麗に微笑んだ。





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