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キス魔笑顔だ。16.5



「香先輩!!??」

 聞こえてきた声が誰のものかなんて、そんな事はどうでもよかった。

「――ッ!!」

「四之宮っ」

 絶叫するように呼ばれた親友の名前が鼓膜を通り抜けた瞬間、涼一は美術室を飛び出していた。





キス魔笑顔だ。




「先輩っ!!」

 色素の薄い、短い髪。

「先輩っ!!」

 血色の悪い、白い頬。

「香先輩!!」

 こちらに大きな背を向けた柳に抱き起こされているのは、確かに自分のよく知る幼馴染だけれど。

 手の届く距離まで近づいて見下ろしたその姿が信じられず、涼一は声を震わせた。

「…う、そ……」

 赤紫色に腫れた頬。

 血の滲んだ唇。

 錆を擦りつけたような襟。

 引き裂かれたワイシャツの隙間に覗く鬱血痕。

「こう…香…っ、」

 嘘だ、嘘だ、信じられない、信じたくない。

 目に映った現実を、心が受け取りたくないと全力で拒否する。

 ぼやけた視界で香を見下ろす涼一は泣き崩れそうになるが、後を追ってきた斉藤に肩を強く掴まれ、はっと視線を上げた。

「四之宮、落ち着け」

「ッ、さいとう、せん、せい…」

「お前が取り乱してどうする」

「でも…、」

「篠原が暴行されたのは間違いないが、最悪の事態ってわけじゃないだろう。情けない顔するな」

「、‥はい」

 確かに斉藤の言う通り、香の身体からは情事の匂いがしない。

 恐らくあの時のように火事場の馬鹿力で反撃し、ここまで逃げてきたのだろう。

 涼一は涙を拭い、ブレザーを脱ぐ。

「柳くん、香を保健室まで運んで」

「…わかりました」

 柳は涼一のブレザーをかけられた香をしっかりと抱いて立ち上がった。













「―――誰が暴行をはたらいたか。わかってるんだよね」

 香が眠っている寝室のドアを静かに閉めた涼一はそこに背を預け、ソファーに座っている柳を氷のような眼差しで見つめた。

「…、…俺の兄貴です」

 出来ることなら聞きたくなかった言葉に、ドアノブを握ったままの手がぴくりと動く。

 顔も名前も知らない美形二人組みに突然話しかけられたことは、本人から聞いて知っている。

 香は涼一が言うまで考えもしなかったようだが、攻撃的な台詞を吐いた焦茶頭が柳の兄であることはすぐに察しがついた。

 しかし、直接何かをしてくるとは思っていなかった。

 体格のいい柳なら迫られることはあっても押し倒される心配はないだろうし、兄が弟を猫可愛がりしているという話しも全く聞いたことがないからだ。

 それに弟の色恋沙汰に手を出すような性格だったらもっと早い段階で会いに来ていただろうと、涼一は軽く受け止めていた。

「何も言わずに飛び出して行ったのは、こうなるかもしれないってわかってたからだよね」

「違うっ!! …、違います」

 一度も会ったことがない僕にはわからないことでも、兄弟の君にならわかっていたことだろう。

 涼一の責めるような口調に柳は思わず立ち上がって叫ぶが、容赦ない瞳に射抜かれて再びソファーに腰を下ろす。

「先週‥月曜から金曜まで異様に宿題を出されて、香先輩に会う時間が作れなくて…。兄貴たちの仕業だってことはすぐにわかりました」

 でも、何が目的なのかはさっぱりわからなかった、と柳は言う。

「他校の女子と付き合ってた時は何もなかったんです。どこ行くんだとか、キスはしたのかとか、からかわれることはあったけど。色々訊いてくるくせにどうでもいいような態度で、俺の恋愛に首を突っ込むようなことはなかった」

「それは相手が異性だったからじゃないのか?」

「…関係ないと思います、異性でも同性でも。同性で好きになったのは香先輩が初めてですけど、兄貴の方から同性との付き合いを勧めることもありましたから」

「そう……。だから一週間も暢気に宿題してたんだ」

 涼一の薄い唇が綺麗な三日月を描く。

「ッ…それ、は…」

「遅いんだよ、柳くん。美術室に香がいないことを知って初めて慌てるなんて。遅すぎるんだ」

 何かを言いかけた柳の言葉を遮り、反論を許さない鋭い口調で涼一は怒りを吐き出す。

「幼稚な足留めを処理する前に、君は香を気遣うべきだった。大量の宿題を出させた人物に気がついた時、君は兄をとっ捕まえて白状させるべきだった」

「…すみません」

「謝る相手が違うだろ」

 空気を切り裂く言葉に、けれど柳はしっかりと顔を上げ、視線を逸らさずに言う。

「兄貴のことは自分で片を付けます。二度と香先輩を傷つけさせません」

「当たり前だ」

 つかつかとソファーに歩み寄った涼一は、その細腕からは想像も出来ない強い力で柳の胸倉を掴み上げる。

 本音を言えば、十センチほど高い位置から見開いた目で自分を見下ろすその顔面に拳を叩き込んでやりたかった。

 でもきっと、香は殴るなと言うから。


「覚えておけ、柳佳寿也。僕は香の為なら何をするかわからない」


 警告だけにしておくよ、今は。





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