「げっ!!」 視界に映ったものを理解するよりも速く、僕は部屋の中に顔を引っ込めていた。 キス魔笑顔だ。 運動神経に恵まれていない僕にしては誰もがビックリするような速さだっただろう。 だけど試験の時に三回見直しても必ずどこかでケアレスミスをしてしまう愚かな僕は、身を隠すだけで精一杯で、見た瞬間には口から勝手に声が漏れていたから、当然誰にも気付かれずに…というわけにはいかなかった。 間をおかずに聞きたくない声が聞こえてくる。 「香先輩ッ!!!」 「……うわあッ!? おまっ、いきなり顔出すな!! 近い!!」 忍者よろしく壁にピッタリと張り付いていた僕は、面倒なことになる前に窓を閉めてしまおうと思って顔を上げたんだが、鼻がぶつかるほど近くにあった柳の顔に心臓が口から飛び出すくらい驚かされてしまって…。 上半身を乗り出されているこの状況じゃ、窓を閉めるのは無理だ。 くそっ! 僕は馬鹿か! 壁に張り付いて身を隠すよりも前に、さっさと窓の鍵を閉めておけばよかったのに!! 自己嫌悪に陥っていると、柳は腕を伸ばして僕を抱き寄せた。 「香先輩、香先輩〜!!」 「だああっ! 抱きつくなッ!!」 ぎゅうううううっ!! と抱きしめられて背筋が凍ったが、この僕が大人しく固まっているはずもなく、若干自由になる腕で柳の背中を殴りまくる。 今までの嬉しくもない経験から、身長でも体重でも負けている僕がスポーツをやっているこの後輩に敵うはずもないことは充分わかっていた。 でも、だけど、殴らずにはいられない。 殴らずにいられるわけがないだろう! 「放せ!!」 「嫌ですっ!! 放しませんッ! やっと会えたのに!」 「知るかッ!! 僕は一生会いたくなかった!!」 今日は朝から姿を見かけることもなく過ごせていたのに、最後の最後で会ってしまうなんて、最悪以外の何物でもない。 しかもそれが自分の愚かさの所為なんだから情けなくて言葉も出ない。 もし、美術室になど向かわず、大人しく寮へ帰っていたら…。 もし、複数の足音など気にせず、さっさとクロッキーを始めていれば…。 ―――ちょっと待て。 コイツ、今、部活中だよな? 聞こえてきたのは複数の足音だし、僕の視界に映ったサッカー部の青いユニフォームは一つじゃなかった。 ってことは、他にもサッカー部の部員がこの場にいるわけで…。 「……!!」 柳の肩越しにチラリと水飲み場の方を見遣ると、こっちを見ている部員とバッチリ目が合った。 ――なんてことだ。 「この…っ、馬鹿野郎!!!」 「痛ッ!!?」 右手を無理矢理振り上げて柳の左後頭部を殴りつけると、存外強くぶつかったのか、柳は拘束している力を少し緩めた。 眦に薄く涙を浮かべている顔が間近にあっても僕の心臓が高鳴るなんて、そんな気持ち悪いことが起こるはずもなく、僕は眉をキッと吊り上げて怒鳴りつける。 「せんぱ――――」 「お前、今は部活動中だろうが!!」 「え…」 「身勝手な行動で他の部員に迷惑をかけるんじゃない!!」 僕は運動部に所属したことなんてないし、スポーツクラブに通ったこともない。 でも、野球やサッカーなど、スポーツにチームワークが必要なことは知っている。 僕ですら知っていることを、柳や他の運動部員が知らないはずがない。 それなのにこの馬鹿は部活動中にも関わらず、僕なんかをからかうことに貴重な時間を使い、輪を乱している。 柳がサッカー部を追い出されようがどうしようが、僕には何の関係もないが、そんないい加減で中途半端な行為は許さない。 僕への告白は嘘でも、サッカーへ注ぐ気持ちに嘘偽りはないんじゃないのか。 「蔑ろにするなら団体競技なんかやめろ。やる気があるならさっさと部活に戻れ」 随分偉そうなことを言っているという自覚はあったけど、自分勝手な柳に遠慮する必要なんてない。 僕は目を見開いている柳の腕を乱暴に振り解くと、同じように僕を見て驚いている数人のサッカー部員に軽く頭を下げた。 僕には何の責任もないと思うけど、何となく申し訳なさに襲われてしまったから。 電池を抜かれた玩具のように動かない柳を放置し、準備室に入ってきた目的である道具を取りに棚へ向かう。 「香、先輩……」 クロッキー帳とコンテのケースを取り出している背中に柳の震える声がぶつかった、けど。 そういえば告白して来た時もコイツは部活の後片付けを放り出したんだよな、と思い出してしまったから、可哀相だなんてちっとも感じない。 その程度の気持ちしかないのなら、いっそ潔く辞めてしまえと思う。 吹奏楽部を除いた、活動の少ない文化部なら幽霊部員も許されるし、むしろ真面目に取り組んでいる生徒にとっては、部員でいてさえくれれば「部」として成立するから、下手に部活に参加して騒がれるより、ずっと幽霊部員でいてくれる方が有難いだろう。 でも、運動部はそうはいかない。 部の規律を乱す者はいてもいなくても変わらないのではなく、敗因の要素にすらなる。 何らかの部活に入っていなければならないと言うのなら、誰にも干渉されない文化部に入ればいいんだ。 やる気がないのは個人の勝手だけど、そのことで真面目に取り組んでいる周囲に迷惑をかけるなんて、僕は許せない。 「香先輩、…俺……俺…、」 「………何だよ」 返事をしてやらなきゃ窓の前から離れそうになかったから、僕は道具を胸に抱いたまま渋々柳を振り返って…。 「っ、?」 思わず目を見開いてしまった。 「俺、嬉しいです!!」 ちょっ、待て待て。 何でお前、そんなに嬉しそうな顔をしてるんだ!? 普通、ここは満面の笑みなんかじゃなくて、泣くか怒るかする所だろう!? 目のついでに口もだらしなく開いてしまった僕を気にすることもなく、何故だか独りで興奮している柳は輝かしい笑顔のまま意味不明の発言を続けた。 「香先輩がそこまで真剣に俺のことを考えてくれていたなんて…っ!!」 「…………はァ!?」 僕が柳のことを真剣に考えた? 冗談じゃない。 頓珍漢にもほどがある。 「感激です!! やっぱり香先輩は優しい人ですね!!」 「ちょっ、違――――」 「俺、部活に戻ります!! これからは香先輩の言う通り、部活がない時に会いに行きますから!!」 「は!!?? 誰もそん――…って、」 誰もそんなことは言ってない。 部活がない時に会いに来いなんて、そんなことは絶対に言ってない。 「人の話を聞けー!!!」 煩い声で現れた柳は、「みんなごめんっ!! 戻ろう!!」という煩い声を発しながら同学年だと思われる部員を連れ、煩い足音を立てながらグラウンドへと戻って行った。 勿論、僕の本心など欠片も理解することはなく。 NEXT * CHAP |