黄色に塗られる星や月。 むりだとわかっているのにてをのばしたくなるのはなんでだろう。 07:高すぎた望み 窓から入り込む風が端に寄せられただけのカーテンを大きく揺らす。 ばさばさという音に混じるのは、プラスチックのカーテンレールがぶつかりあう音。 かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。 軽くて小さなそれは悲鳴に聞こえなくもない。 じっとりと湿度を纏った空気に包まれながら桜崎は口を開く。 「ひきょう?」 どうしてそんなふうに言われるのかがわからないという口調。相変わらず悲しげな色を浮かべる顔におれは苛々してくる。 だから……、 「どうしてあんたがそんな顔するんだ」 キスしたのはあんたで、キスされたのはおれなのに。 「悪者かよ、おれは」 「! ちが、」 「傷ついたような顔してんじゃねえよ」 頭がつきんと痛む。 何でだろう。…何でだろう。よくわからない。でも苛々する。 泣きそうな顔、悲しそうな顔、傷ついたような顔。 桜崎がどんな顔をしようがおれには何の関係もないのに。 勝手にすればいいのに。 むかついていらいらする。 桜崎にきつく吐き捨て、おれは美術準備室の鍵を回した。去年までは四之宮先輩と篠原先輩くらいしかまともに部活動をしていなくて、窓を開けることも少なかったらしい。でも今は基本的に毎日換気をしているから画材独特の臭いが篭るということはない。 おれは小さい頃から絵の具に親しんでいるから別に気にならないけれど、鼻の粘膜にべったりと張り付くような重さを持った臭いが嫌いな人はきっと多いだろう。市村もアトリエや美術室に何時間も篭った後に会うと凄い臭いだなと苦笑するから、自ら絵を描くことがない人の殆どは苦手なんだと思う。 ……桜崎は最初から気にしてなかったけど。 「、あっ」 苛々していた所為か動作が乱暴になり、棚から画材を取り出した衝撃で上の段に仕舞ってあるスケッチブックが滑り落ちてしまった。 …何をやってるんだおれは……。 大事なものなんだからもっと丁寧に扱え、と自分を戒めながら床に落下したヴァニラ色のスケッチブックを拾う。表紙の中央あたりに『ラフ 人物』という文字が走っているこれの中身は文字通り人物画だ。四之宮先輩や篠原先輩、市村など、身近な人物がパステルで描かれている。 解けかけていた紐を結びなおしてから元の場所に戻すと、見慣れない色のスケッチブックが目に入った。 綺麗なボルドー色。 一瞬停止した後にそれが誰のものであるかを思い出す。 「篠原先輩の…、借りたままだったっけ」 指をかけて取り出し、ページを捲る。貸して下さいと言ったおれに篠原先輩は『あんまり参考になるとは思わないけどな』と笑った。けれどこのスケッチブックには篠原先輩らしさが詰まっている。 いや、これだけじゃない。 篠原先輩のスケッチブックはどれも篠原先輩にしか作り出せない感覚で埋め尽くされている。おれが望むものに溢れている。 ひっそりと時を刻む美術室の道具も、部員が走り回るグラウンドも、生き生きと咲く花壇の花も、がらんとした放課後の教室も。篠原先輩が切り取ればそこには感情と色が生まれる。……ただひたすらに自分の描きたいものを描きたいように描いているから。巧く描こうとなんてしていないから。 だから篠原先輩の絵は、ラフなデッサンですらおれの意識を惹き付けて止まない。 「――…総彩」 一枚一枚を頭に刻み込むように見ていたおれは、桜崎が美術準備室に入ってきたことに全く気付かなかった。 すぐ横から名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせる。 「っ、…驚かすなよ」 軽く睨みつけるおれに困ったような表情を向ける桜崎。ごめん、と謝罪を口にして小さなスケッチブックを差し出してくる。 …そりゃあ、あれだけずっと見ていれば飽きるだろう。そんなに枚数はないし、ただの果物しか描いてないし。 でもそれが理由じゃないことは桜崎の顔を見ればわかる。 ‥わからないこと、だらけだけど。 おれだってそれくらいはわかる。 「ん」 受け取ったスケッチブックの代わりに別のスケッチブックを差し出すと、桜崎は目を丸くして、え、と言った。 おれの顔とスケッチブックを交互に見やる。 「新しいの」 「え、え、…いい、の‥?」 「よくなきゃ渡さない」 困惑の中に嬉しさを覗かせる桜崎から目を逸らし、受け取った小さなスケッチブックを棚に仕舞う。 …殴り描きや落描きという表現が似合うお前だけど、あれだけじっくり見てもらえたんだから幸せだよな、なんて。伸ばした右手を脇に戻しながらおれは小さく笑う。 左腕に抱いたままの篠原先輩のスケッチブックも元の場所に返そうかと思った時、今ではすっかり慣れてしまった温度が背中に触れた。 無意識に肩が動き、そのことに当然気付いた桜崎が腕の力を緩める。 「あ‥、ごめん」 「、……別に。嫌だとは言ってない」 離れていこうとした腕のシャツを、おれは、思わず掴んでいた。 桜崎がごめんと謝るのは初めてのことじゃない。聞き慣れているというほどではないけれど、今までも桜崎のごめんという言葉は聞いてきた。 何かを相手の所為にするような性格じゃないから。素直に自分の非を認める奴だから。 桜崎がごめんと言うのは珍しいことじゃない。 でも、違う。 昨日と今日の『ごめん』は。 今までの『ごめん』とは違う。 ……だから、なんか、いやなんだ。 眉間に皺が寄って、頭が痛くなって、胸に重たいものがつっかえて。 苛々する。 白いシャツを掴んでいる自分の指をじ、と険しい顔で見つめていたおれは、ふと思い出した。 ――もしかしなくても、おれ、滅茶苦茶小っ恥ずかしい台詞を口にしなかったか? いや、むしろこの指が現在進行形で小っ恥ずかしいことをしているんじゃないのか? その事実に気付いた途端、桜崎が石のように固まった理由にも思い至る。顔が一気に熱くなった。数分間の記憶を消してしまいたい。と言うか時間を巻き戻してこの場から消えたい。 「あっ、や、別に今のは…っ」 慌てて訂正しつつ離れようとすると、それを阻むように桜崎の腕に力が篭った。じわり。シャツを通して伝わる体温。いつもより高く思えるのはおれの気のせいだろうか。 甘いのにどこか鋭い囁きが耳朶を擽り、余計に顔が熱くなる。 「総彩、キスしてもいい?」 「や、だ」 それはいやだ。ぜったい。 「…そっか」 篠原先輩のスケッチブックをぎゅう、と抱きしめて熱が去るのを待つ。見えてるのかもしれないけど。頬を赤くしたまま顔を上げるのは嫌だ。 そんなおれの胸中を知っているのかいないのか、覗き込むように桜崎が顔を近づけてくる。 「それも総彩のスケッチブック?」 「…篠原、先輩、の」 顔を背けて答えた。だから。 おれの返事を聞いた桜崎がどんな表情を浮かべたのかなんて、わからなかった。 「あ゛ーーっ、くそ! むかつくっ! あいつら好き勝手言いやがって!!」 基本的に二人で使うことになっている部屋のドアを開けると、腹立たしさの滲む叫び声がおれを出迎えてくれた。言うまでもないが、発声源は同室者の市村だ。どうやら非常にむかつくことがあったらしく、洗面所にまでどすどすと足音が伝わってくる。 手洗いと嗽くらい静かにやらせろよ…。 「市村煩い」 隣から苦情がきたら面倒だろうが。 「! 聞いてよサアヤ! あいつらひどいんだからっ!」 「酷いのはお前の声量だ」 500mlのペットボトル片手に台所から飛び出してきた市村。その顔面に向かって中身がすかすかの鞄を振り上げる。ばふ。昨日とは違い、見事にヒットした。…紙屑より避けやすいと思うんだけどな。目線より低かったから見えなかったのか? ぶっ!、という文句の悲鳴は聞こえなかったことにしておこう。 「ほんとひどいんだってば! 無理だのむぼーだの高望みだのって…っ!」 めげないことが今学期の目標なのか、市村は冷蔵庫に向かうおれのあとをついてきた。 「ちょっとかるーい気持ちでラブコン出ようかなーとか優勝商品のチケット欲しいなーとか言っただけなのに、寄ってたかって笑いやがったんだぜ!? マジむかつく!!」 多分あいつらというのは部活仲間のことだろう。一年が何人いるのかは知らないが、その時のことを思い出したらしい市村は悔しそうに奥歯を噛み締めた。ハンカチを渡したらキー!、とヒステリックな声をあげてくれるかもしれない。 ラブコンというのは『ラブリーコンテスト』の略で、文化祭二日目の午後に行われる恒例イベントの一つだ。 参加用紙に必要事項を記入し、生徒会に提出するだけでエントリーは完了。化粧も仮装もありだから、偽名で出場することも出来る。 「なーにが『一位になれなかったら”高すぎた望みだったのよ市村くん”って慰めてあげるからね』だ!! よけーなお世話だっつーのっ!」 ……何と言うか。市村が可愛らしい生徒を選ぶラブコンに出ようかなと思っていることにも驚いたが、それ以上に優勝商品が欲しいということに驚いた。 今年の優勝商品は確か遊園地のペアチケットだったはずだ。一緒に行きたい相手がいるなんておれは一言も聞いてない。いや、報告する義務はないから別に問題はないんだけど。 「―――サアヤ、一緒にラブコン、出ない??」 「……、は?」 市村のタイプってどんな人だったっけ。入寮時に聞いたような気がして記憶を掘り返していたおれの耳に、なんとも恐ろしい言葉が入ってきた。 「おっしゃ、ペアで出るべ!」 待て。何で控えめな『出ない??』からいきなり断定の『出るべ!』になるんだ。 「だいじょぶだって! 眼鏡とってけしょーすれば誰もサアヤだって気付かないから!」 「お前とペアって時点で怪しまれるだろうが」 そんな軽すぎるだいじょぶなんて信用出来ない。というかラブコンなんて出たくない。 第一、おれとペアを組んだって優勝できるわけじゃないし、おれはお前と違って一緒に遊園地に行きたい相手なんていないんだっつの。 「独りで出て素直に『高すぎた望みだったのよ市村くん』って慰められろ」 「サアヤひどい! はくじょー者!」 騒ぐ市村を無視しておれはペットボトルに口をつけた。 使用御題>>Fifteen title『止まらない恋』 NEXT * CHAP |