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Vivid World 08


 12色、18色、24色、30色、40色、80色、120色。

 ぬりつぶしておおいかくしてけしてしまったいろもたぶんあるけど。



08:



「いたっ、ちょ、マジで痛いってば!」

 正直に言って、市村という男は馬鹿だと思う。
 運動神経抜群でサッカー部のホープと言われていても、綺麗に焼けた肌と人懐こい笑顔が好青年を連想させても。
 中身は本物の馬鹿だ。
 色んな意味で小学生のような素敵な脳味噌の持ち主だ。

「もっと優しくしてよ〜、サアヤちゃ〜ん」
「気持ち悪い声を出すな。気持ち悪い」
「二回も言わなくたっていいじゃんっ」

 保健室の丸椅子に座ったまま上半身をくねらせてひどい!、と叫ぶ市村に本気で頭が痛くなってくる。二人分の頭痛薬が欲しい。……いや、一人分は精神安定剤か睡眠導入剤の方がいいかもしれない。

 おれは自然と視界に入ってしまう気色悪い光景を意識的に排除し、目の前にある酷い擦り傷に消毒液を吹き付けた。

「…、つぅっ!」
「男なら我慢しろ」

 一、二、三……両足合わせて七箇所か。普通サイズの絆創膏で足りる程度の小さな傷も含めて、だけど。部活中や試合中ならともかく、どうしてただの体育でこんなに傷を作るんだ。
 文化祭までに治らねえぞ。

 溜息を吐きつつ、足首の方へ向かって垂れていく消毒液を脱脂綿で綺麗にふき取る。小さい頃から動き回っているだけあって、筋肉のつき方は綺麗だった。

「ハーパンでスライディングする高校生なんてお前くらいなもんだろうな」
「コートの上は戦場だから!」
「意味わからん」
「ハーパンでも長ジャーでも、したいと思ったらスライディングするの!」

 握り拳を作って胸を張る市村を見て、おれは再び思う。
 市村は馬鹿だ。本当に本当の馬鹿だ。サッカーをやる人間なら、特に足を傷つけたくないと思うはずなのに。部活中にもサポーターをして、怪我から護っている場所なのに。

「お前が心配することじゃない、って言わなかったか、おれ」

 やたらとボールを回され、その度に囲まれたサッカーのゲーム。
 クラスメイト全員に敵視されているわけではないし、危ないことをしないように教師も見ているから、おれは別に気にしていなかった。ぶつかったところが痛んでも、掴みかかられたり押し倒されたりしたわけじゃないから。
 めんどくせーな、と思っただけで。別にどうでもよかったのに。

「何でスライディングしたんだ」
「したかったから」
「お前が怪我してまでボールを奪う必要はなかったはずだ」

 冷たい床から立ち上がって見下ろしたおれに、したかったんだよ、と市村は言った。

「サアヤを妬ましく思ってる奴らに、お前らが何をしてもオレは絶対サアヤと一緒にいる、って。自分が傷つくことになっても、オレは絶対、サアヤの傍から離れない、って。見せ付けてやりたかったんだ」

 やっぱり、馬鹿だ。
 負わなくていい怪我を自分から負う市村は、絶対、馬鹿だ。

「ハブられても知らねえぞ」
「いいよー。サッカー部には色恋沙汰でハブるような奴、いねーもん」
「土曜日にむかつくだの酷いだのと騒いでたのはどこの誰だ?」
「それとこれとは話が別ですっ」

 口を尖らせる市村に頬が緩む。
 おれは肌を焼くような暑さにやられてしまったのかもしれない。
 ――太陽の似合う市村が太陽に見えるなんて。





 市村の手当てを終えたあと、おれは教室へ戻らなかった。
 既に四時限目が始まっていることは知っていたけれど。無性に篠原先輩の絵が見たくなったから。
 階段の前で市村と別れたおれは、ジャージ姿でアトリエへ向かった。

 このままじゃいけないことぐらい、わかってる。
 他の誰でもなく、おれが動いて変えなきゃいけないって。
 わかってる。
 でも、わからないことの方が多かった。

 桜崎が口にする『好き』という言葉の真意も、初めて会った時からずっと感じてるものも、あの色素の薄い双眸から目を逸らせない理由も、どこか奥の方で確実にズレている感覚も。
 まだわからない。
 多分、頭の片隅か心の奥底ではわかってるんだと思う。何となく、説明は出来なくても、漠然と理解してるんだと思う。そうじゃなかったら、おれはきっと桜崎に面倒な感情を抱かない。
 腹立たしいとか、苛々するとか、むかつくとか。
 朧げでもおれの中に答えがあるから、おれは桜崎の存在を無視することが出来ないんだ。

 消してしまえば楽なのに、忘れてしまえば楽なのに――…そうは思っても、おれの中にある何かが、放棄しようとするおれを引き止めて放さない。
 結局おれは、桜崎と真正面から向き合いたいと思っているんだろうか‥?


 廊下を歩いている教師がいないことを確認しながら、上履きで敷石の上を進む。校舎から出ると教師の声よりグラウンドや体育館で走り回る生徒たちの声がよく聞こえた。
 山奥にある別荘を思わせるアトリエの中は、実はそれほど広くない。部員や美術教師(顧問)の荷物などを仕舞っておく保管庫に、三分の一程スペースを使われてしまっている為だ。
 保管庫は一見、ただの壁にしか見えないから、知らずに入った人は予想外の狭さに驚くだろう。

 隅っこにある穴に人差し指を引っ掛け、ぱかっ、と薄っぺらい蓋を外す。規則的に並んだアルファベットのボタン。パスワード、と言うと大袈裟な仕掛けを想像してしまうが、全然そんなことはない。『STUDIO』と入力してもロックが外れるだけだ。

 おれはどれだけ念じても自動的に動くことのない壁のような扉に手を掛け、横にスライドさせた。存外軽いそれは教室のドアと同じような音をたてて中にある空間を曝け出す。
 変だと笑われるかもしれないが、おれは、この保管庫に入る瞬間が好きだった。動いている空気を纏いながら停まっている空気に入り込む、その目に見えない一瞬の接触は、妙に優しい。
 ……笑われるより、おかしいと言われる確率の方が高いか。

 アトリエや校内に展示されていた作品を収納する、右手奥の大きな棚。篠原先輩用の段はすぐに見つかった。おれはそこからいくつかを丁寧に取り出し、小さな傷一つつけないように抱きかかえて作業場の作業机に運ぶ。
 作品を一つ一つ並べることで灰色を埋めていくと、細長い机と一緒におれの頭の中も篠原先輩の色で埋まっていくような気がした。

「…?」

 なんだ、これ。
 ふと作品の下から顔を出した白い紙。
 コピー用紙のように見えるそれを、作品が落ちないように注意しながら引っ張り出す。何かが四角く透けていることに気付いて裏面を見てみると、そこには一枚の絵が印刷されていた。
 誰の絵だろうか。
 多分、デジカメか何かで撮ったものをプリンターで印刷したんだろうけど…、見たことがない絵だ。先輩たちの全ての作品を見る機会なんてなかったから、おれの知らない絵があるのは当然だけど。
 でも、これだけは言える。この絵を描いたのは篠原先輩じゃない。色の使い方も筆の使い方も全く違う。

 ……、部長‥?

 本体より何割も小さくなっているであろう絵を見つめていたおれの脳裏に、突然、四之宮先輩の姿が浮かんだ。潰れていて、よくわからない。けれど柔らかさの中に勢いを感じさせるタッチは、四之宮先輩の描き方に似ているような気がする。そう思った途端、おれはこの絵を直に見てみたくなった。
 でも、おれたち部員に許されているのは、見たことのある絵を参考にする為に引っ張り出してくるという行為だ。見たことのない絵を見る為に漁るという行為は許されていない。
 コピー用紙を掴んだまま保管庫に駆け戻ったおれは、四之宮先輩用の段をぼうっと眺めていることしか出来なかった。


 ―――がちゃり。

 一日に何回も聞く、平凡な金属音。
 馬鹿みたいに突っ立っていたおれの意識を現実に呼び戻したのは、アトリエのドアが開く音だった。
 びくっ、と大袈裟なほど肩が跳ねる。椅子に座っている状態だったら転んでいただろう。

 おれは慌てつつも静かに、開きっぱなしになっている保管庫の扉に近づいた。そして細心の注意を払いながら、ゆっくり、ゆっくり、音が出ないようにスライドさせていく。
 この学校には授業中に見回りをする教師なんて存在しないし、アトリエでサボろうと考える一般の生徒も存在しない。だから多分、入ってきたのは美術部員で、隠れる必要はないのかもしれない。
 でも、ここからでは画材の収納された棚が邪魔になって相手の姿が全然見えないから、安易に出て行くことはしたくなかった。

 篠原先輩の作品を並べた作業机が徐々に視界から消えていく。
 あと10センチ、5センチ、3センチ。
 もう少しで扉が全部閉まる。
 その、時。

 お う さ き 。

 視界の隅に飛び込んできた人物に、おれは、声にならない悲鳴を上げた。
 なんで。どうして。なんで。
 セメントで塗り固められたかのように、手足が動かない。目と頭が同時に現実を拒否したいと訴えている。

 …何で?
 わからない、わからない。
 でも、どうしようもなく、嫌な予感がする。

 あと、3センチ。
 さっきより少し力を強くして閉めても、おれが並べた篠原先輩の絵を凝視している桜崎は、きっと気付かない。
 だから、だから、はやく。
 早く、閉めて。手に、力を込めて。

 桜崎を視界から排除しなければならないとわかっているのに、言葉も叫びも頭の中を行き交うだけで。おれの身体はぴくりとも動かない。心臓がばくばく動いていても、手は、指は、動かない。
 その代わりだとでも言うかのように、桜崎の手が、空気を切り裂いて。

 ―――だんっ。

 のどがくるしくなった。

 羨望と、憎悪と、懇願と、後悔を、全身で、叫びながら。
 振り上げた右手を、作業机に叩きつけた、桜崎を、見て。

 むねがくるしくなった。

 俯いている桜崎の表情は見えない。でも、白い頬を伝う透明な雫が桜崎の心情を代弁している。
 な み だ 。
 あの時、泣きそうな顔をしても、泣かなかった、桜崎が。篠原先輩の絵を見つめながら、泣いている。望んでも、願っても、祈っても、決して手には入らない現実を、目の前に。
 桜崎が泣いている。

 かちり――――おれは頭の中で何かが合わさる音を聞いた。
 唇だけでひっそりと呟く。

「 す き に な ら な い な ん て む り だ 」

 閃光のように鮮やかないろを、海のように優しいいろを、日溜りのように暖かないろを、微温湯のように心地良いいろを。
 それらを、教えてくれた人を。お れ も 、

「 す き に な ら ず に は い ら れ な か っ た 」

 かさり。指の隙間から抜け落ちた紙が床と触れ合う。
 『涼一/届いてください』
 篠原先輩の細い字が、右下の隅に薄っすらと浮かんでいた。



使用御題>>Fifteen title『止まらない恋』



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