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Vivid World 05
※12禁表現※

 赤く、紅く、燃える太陽。

 いのちのいろはおそろしいのにうつくしい。



05:



 ワイシャツで乱暴に拭った目元が空気に触れてひりひり痛む。人前で泣いたことなんてなかったのにな…。さっきよりクリアになった視界に自分の手を映しながら、ああ、泣いたんだな、と思う。

 泣きそうになったことは何度もある。泣きたくなったことは何度もある。
 でも、おれは泣いたりしなかった。
 母さんが自分を責めても。ごめんねと涙を流しても。
 おれは泣かなかった。

 辛いのも悲しいのも、みんな、みんな。おれじゃなくて、母さんの方だから。おれが悪いのに、母さんが自分の所為だと謝るから。
 おれには泣く資格なんてなかったんだ。


 右手で左胸を押さえる。
 忘れかけていた痛み。あの頃はいつも感じていた。
 母さんが泣いていても、泣き止んでも、微笑んでも。
 薄れることはあっても、消えなかった、刺すような痛み。

 何故か今は痛まない。
 潰れそうなほどに痛かったのに。
 涙が引っ込んだ今は少しも痛まない。
 一定のリズムで動いているのを感じるだけだ。

 …あの頃も、おれは一緒になって泣けばよかったのだろうか。
 そうすれば、罪悪感で胸が痛くなるようなこともなかったのだろうか。
 そんな詮無いことを考えながら手を床に下ろしたおれは、未だに自分の身体が拘束されていることに気づく。

 ……篠原先輩がきてからずっと喋ってないから存在を忘れかけていた。

「先輩」

 …何で腕に力を込めるんだ。離してほしくて呼んだのに。

「先輩、」
「好きだ」

 離して下さい、と続ける前に聞こえた、告白。
 え、と驚いている間にお腹の辺りにあった腕が肩まで上がる。

「好きだ」
「‥、先輩?」
「好きなんだ」

 更にきつく抱きしめられれば、首を捻ることも叶わない。
 耳元で空気が震える。

「あの、先輩。離してもらえませんか」
「やだ」

 高三にもなる男がやだ、って。
 いや、あの甘ったるい笑顔が作れる桜崎にはある意味非常に似合う言葉なんだろうが、そんなことは関係ないというかどうでもいい。

 腕に力を込めて無理矢理離れようとすると、少し身体に隙間が出来た瞬間、向かい合わせに抱きしめられてしまった。…強制的に捻られた脇腹が痛い。攣ったらどうしてくれるんだ。

「‥ちょっ、と」
「ごめん。篠原の言う通りだ。全部俺が悪い」

 いや、

「俺が総彩に付きまとえば、いつか総彩が傷つけられるってわかってたのに。篠原にも護れないなら総彩に関わるなって言われてたのに」

 あの、

「ごめん。俺、総彩を傷つけた。ごめん。でも、」

 だから、

「離せってばっ」
「ッ、」

 ぐいっ、と腕を突っ張って強引に身体を引き剥がす。無理に伸ばされていた脇腹の筋肉がじんじん痛む。
 目の前には今にも泣き出しそうに歪んだ情けない顔。
 ……、ったく。

「何であんたがそんな顔してんだよ。ちょっと落ち着けって」
「さあや」
「情けない声出すな。仮にも副会長だろう」
「…かりにも、って、」
「煩い黙れ」
「…………」

 公園の遊具の下で雨と風を凌ぐ、捨てられた仔犬。今の桜崎にはこの表現がよく似合う。むしろこれしか思いつかない。
 去年の生徒会選挙で桜崎に投票した生徒に知れたら袋叩きに遭いそうだが。

「あんたは悪くないよ」

 右手を上げて頬に触れる。見た目通り肌理が細かい。
 手を滑らせると桜崎の長い睫毛が震えた。

「…なん、で?」
「少しも悪くないとは言わないけど。おれは別にあんたに傷つけられたなんて思っちゃいないし、あんたがあの生徒に絵を破けって命令したわけでもないし」
「でも、」
「確かにあんたがおれに付きまとった所為でこうなった」

 桜崎がおれの存在を知ることもなく、好きだと付きまとうこともなく、ただ他人のように過ごしていれば、こんなことは起きなかった。

「だけど、自分の絵に触れられそうになった時も、破れた絵を見た時も、おれはあんたを憎らしいとは思わなかった。あんたがここに来た時はいつもうざいとか鬱陶しいとか思ってたけど。別にあんたの所為だなんて思わなかった」

 だから、あんたは悪くない。
 そう言ったおれの右手に桜崎の左手が重なる。

「どうして?」
「?」
「どうしてそんなにやさしいの?」

 色素の薄い、大きな瞳。
 そこにある色が示すのは困惑なのか、渇望なのか、後悔なのか。
 硝子のように透き通った目がおれを真っ直ぐに見つめている。

「…別に、優しくなんかない」
「でも、俺を責めなかった。絶対、責められると思ったのに」

 眉間に皺が寄る。
 理由なんて知らない。よくわかんない。けど、ムカついた。

 右手の指に力を込めて桜崎の頬を抓る。

「ッ、‥いたい」
「あんたの泣きそうな顔はけったくそ悪いんだよ」
「…ケッタクソワルイ??」
「苛々するし腹立たしいってことだ馬鹿野郎」

 最後にぎゅっ、と思い切り抓ってから立ち上がる。呆然とした口調でばかやろう‥と呟く声が聞こえたが、意味がわからないはずはないから振り返らない。

 眼鏡を外してから目元をばしゃばしゃと洗い、ハンカチで水を拭う。この程度なら瞼が腫れることもないだろう。ひりひり感がとれてすっきりした。

 濡れた前髪をかき上げる。目の前の窓に映る女顔に父親の面影は一つもない。…なくてよかったのだと思う。
 目も鼻も口も輪郭も。全てのパーツが母さん似でよかったとおれは思っている。

 ………そう言えば、と思い出し、床に視線を落とす。
 倒れた筆洗と光を反射させる色水。
 本人はさっさと逃亡してしまったんだから当然と言えば至極当然の光景だ。片付けられているはずがない。

 …はあ。溜息一つ。
 おれは眼鏡をかけてから干してある雑巾を手に取った。



 遠くの地面を走る夕陽の赤。
 作品の劣化を防ぐ為に光の届かない場所に造られた美術室が、燃えるような色に染まることはない。
 窓の前に立って外を眺めていたおれを、いつの間にか背後にいた桜崎が抱きしめる。

「総彩」

 おれを呼ぶ甘ったるい声も、色白の割りに高い温度も、スキンシップも。段々と桜崎のペースに慣れてしまっている自分が恐ろしい。
 でも、このままずるずる流されて最終的に付き合う、ってことは絶対にないと言い切れる。
 だっておれは桜崎の告白を信じてないから。
 どんなに真剣に好きだと言われても、桜崎という人間が理解出来ない限り、信じることはない。

「先輩、そろそろ終了時刻…」

 胸の前にあった腕は案外簡単にはずれた。だからおれは安心して距離をとり、桜崎の顔を見上げた。のに。

 甘ったるい声を出せるとは思えないほど、真剣な目が、おれを見ていて。

「っ、」

 桜崎の手が頬を通り越す。
 耳の裏あたり、後頭部に伸びる。

 やばい、あぶない、だめだ。

 頭の中で警鐘が鳴ってる。わかってる。でも、動けない。
 固定された視線は逸らせない。

 ――たぶん、おれは、しって、る。その、せつぼう、や、かつぼう、ねつぼう、の、いろが、にじんだ、め、を。しってる、はず、だ。

 耳と目の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合う思考が電気信号を妨害する。
 動くことも目を逸らすことも逃げることも出来ない。

 近づいた温度はすぐに離れていった。

「……な、に、してん、の」

 お互いに目を開けたままのキス。
 …キス、なんて。そんな色っぽいもんじゃない。
 手や指へのキスとは違う。
 あれはもっと温かかった。もっと明るくて優しかった。

「なんで、こんな、…」

 知りたくなかったのに。
 黒っぽい汚れた色が流れ込んでくるキスなんて。



使用御題>>Fifteen title『止まらない恋』



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