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Vivid World 04


 ぐちゃぐちゃの汚い黒でも、どろどろの気持ち悪い緑でも、ねばねばの不気味な赤でも。

 いらないいろなんてないってしんじたい。



04:



 ひっそりと静かに時を刻む無人の美術室。
 予期していた通り、いつもならおれより早く来て絵を描いている二人の姿はどこにもなかった。もしかしたら遅れてくるのかもしれないが、きっと必要な道具を持ってアトリエに行ったんだろう。おれが向こうの立場だったらもっと早くにそうしてる。

 何箇所かの窓を開けてから準備に取り掛かる。相変わらず桜崎の訪問は続いているが、最初の頃のようにくっついて離れなかったりという邪魔…むしろ妨害か?
 まあ兎に角そういうことがないので、意外と着彩は進んでいる。元々水彩画は好きだし、このままいけば土日あたりに描きあがるだろう。

「パーマネントイエローライト、ピーコックブルー、バーミリオンヒュー、ブリリアントオレンジ、クリムソンレーキ…あとはパーマネントグリーンNO.1か」

 一つ一つ色の名前を口に出しながら足りなくなった絵の具をパレットに出していく。これはおれの癖だ。他の美術部員もチューブに記されている色名を呟くことがあるけれど、毎回確認するように言うのはおれただ一人。
 わかってるけどやめられない。幼少期からの癖はそう簡単になおせるものじゃない。…なおす気もない。

 様々な色をのっけられた調色板の真っ白な部分で色を混ぜ合わせる。とんとん、という時もあれば、ぐちょぐちょ、という時もあり、すいっ、という時もある。他人との付き合い方が一つでないように、作りたい色や使う場所によって混ぜ合わせ方は変わるものだ。
 描いている時の精神状態に左右されることもあるけれど、それでもそれはいい加減になったりしない。どんなに楽しい時でも、どんなに沈んでる時でも。その時に感じた感覚で描こうとするから。だから色調に違いがあっても、それは決して適当なわけじゃない。……なんて、偉そうなことを言えるほど凄い絵を描いてるわけじゃないんだけど。

 青が薄く塗られている場所に細く小さく緑をのせていく。イタチの毛で作られた極細の筆を使ってちまちまと色を重ねていく作業は途轍もなく面倒で肩が凝る。だから一瞬でも集中力を途切れさせると投げ出したくなる。
 模写や静物画ではなく、自分の頭の中にだけ完成像がある抽象画だから尚更だ。妥協したいとは思わないけれど、やっぱり神経を使う部分は後回しにしたいと思ってしまう。

「―――…ふう」

 同じ場所に明るい色を足し、なんとか立体感を出すことに成功する。
 筆をおいて伸びをすると、右肩から首にかけての筋肉が少しだけ痛んだ。



 十秒も歩けば辿り着くトイレ。目と鼻の先にあるそこから戻ってくると、美術室内には一人の生徒がいた。
 小さな身体。焦茶色のふわふわした髪。
 そんな後姿に見覚えはない。
 毎日美術部員全員と顔を合わせているわけではないから断言は出来ないけれど、かなりの確率で美術部員じゃない。

「何してるんですか」

 わざと足音を響かせてからそう言うと、人の道具を漁っていた生徒はびくりと肩を震わせて振り返った。
 大きく開かれていた目がおれの姿を映した瞬間、憎悪に歪む。

 やっぱりか。いつかこうなると思ってた。

「お前…っ!」

 イーゼルに立てかけてある絵をおれのものだと断定する為に「一条総彩」という名前を探していたんだろうが、人の持ち物を勝手に触るような奴にお前と呼ばれたくはない。
 眉を吊り上げた生徒の手がおれの絵に伸びる。

「こんなものっ、」
「触んな!!」

 その刹那、駆け寄ったおれはワイシャツの襟を掴んで遠ざけた。何十時間もかけて描いてきた絵を台無しにされるなんて冗談じゃない。
 誰が顔も名前も知らない人間に触れさせるか。
 生徒の足が床に置いてあった筆洗にぶつかり、色水が宙を舞う。

「お前、生意気なんだよ! 桜崎先輩に構ってもらってるからって調子に乗るな!! お前の絵なんか誰も見ないに決まってるだろ!」

 隅に飛んでいった筆洗に気を取られていたおれの腕を生徒がきつく掴む。イーゼルの方に倒れそうになって慌てて足に力を入れる。自分で押し潰すなんて馬鹿なことはしたくない。
 再び絵に伸びた手を阻止しようとして身体を反転させると、その勢いで二人一緒に傍の棚にぶつかった。いや、実際にぶつかったのはおれの左肩だけか。

「つっ!」

 ここで手を離せば色んなことが無駄になる。痛みに顔を顰めながらもおれは指に力を込めた。

 今の衝撃で床に落ちた数冊のスケッチブック。表紙を踏みつけて掴み合う。心の中でごめんなさいと謝る余裕もない。
 生徒の手がおれの眼鏡に伸びる。それを避けた刹那、足元でびりびりっ、という音がした。

「――――っ!!」

 目を見開き、動きを止めたおれを生徒が棚に向かって突き飛ばす。

「し、知らないっ! 僕の所為じゃないからなっ! お前が破ったんだ!!」

 小さな上履きの跡。はっきりと残っている証拠。破った感触があったはずなのに、自分の所為じゃないと叫んだ生徒は美術室を飛び出していった。
 全身の力が抜け、おれはスケッチブックの上に座り込む。

 ……やぶって、しまっ、た。
 篠原先輩の絵を、破って、しまった。

「ぁ…っ…、‥」

 なんで、どうして。なんで、なんで。
 大好きな篠原先輩の、大事な、絵を、おれは、

「あ、あ……っ」

 破れた場所に触れても、紙はくっついたりしない。
 どんなに時間を戻したいと願っても、時計の針は進んでいく。

 喉と、声と、手が、震えて。
 心臓が、痛かった。

「総彩…? っ、総彩!?」

 床の上を駆ける音がする。
 無理矢理動かされた風が髪を揺らす。
 肩に何かが触れる。
 じんわり伝わる高い温度。

「総彩、どうしたのっ?? 大丈夫??」
「‥せん、ぱ……」

 顔を上げると、桜崎が見えた。
 色素の薄い瞳の中に、死にそうな顔をした自分が映っている。
 大丈夫じゃない。少しも大丈夫じゃない。

「え、が…」
「! これ…」
「篠原、先輩、の…先輩の、大事な、絵、‥っ、おれ、絵を、」

 破ったのはおれじゃない。
 でも、おれの所為で破れた。
 おれがいなければこの絵が破れることはなかった。
 大切な人を描いた篠原先輩の大事な絵が、おれに対する悪意で破られることはなかった。

「落ち着いて、総彩。大丈夫だから、ね?」

 大丈夫? 何が大丈夫? 何にも大丈夫じゃない。

 破れた絵は元には戻らない。
 たとえ綺麗に修復されたとしても、二度と同じ絵は出来上がらない。
 破れた事実も破れた絵の姿も一生頭に残ってる。

 桜崎は震えるおれを片手で抱きしめ、もう片方の手で携帯を操作した。

「――――‥篠原、今すぐ美術室に来てくれ。…そうだ。っ、わかってる! いいから早く来い!! 総彩の為だっ!!」



 桜崎に電話で呼び出された篠原先輩は、一分も経たない内に最上階にある生徒会室から下りて来た。息を切らせたままおれの前まで駆け寄ってくる。

「一条、大丈夫か? 何があった?」
「っ、せん、ぱい…」

 酷く心配そうな顔でおれを見つめる篠原先輩に、おれは、破ってしまった絵を差し出した。

「ごめっ、な、さ……っ」
「! これ、俺の…」

 受け取った篠原先輩は、驚いたように目を大きくする。
 汚い足跡も、変な折れ目も、台無しにする破れも、少し前まではなかったのに。

「おれが…おれの所為で、破れ…っ、ごめん、なさい‥!」

 破れたと口に出した途端、現実を伴った涙が頬を伝う。
 だって、本当に大事な絵だったんだ。
 描いた篠原先輩にとっても、モデルになった柳先輩にとっても、勿論大事な絵だったに違いないけど。
 全く関係のないおれにとっても、物凄く大事な絵だったんだ。

 四月の後半。
 仮入部期間にアトリエを訪れたおれは、隅っこに飾ってあるこの絵を見て、初めて「色」の持つ本当の力を知った。
 電池の切れた機械のようにその前から動かなくなってしまったおれに、篠原先輩は心を奪われるような絵じゃないだろうと笑ったけど。
 おれは冗談抜きに心を奪われていた。

 素朴で簡素なタッチも、微温湯につかっているような透明に近い色調も。「色」を使いながらも「色」に頼らない、見ている人間と見られている絵との間にある空間が溶け合うような温かさも。
 おれの頭の中にある規則正しいカラーチャートでは理解出来ないものだったから。この絵に出会うまで、おれは、酷くつまらない色しか知らなかったから。

「一条、お前が謝る必要はないだろう?」
「なんで、ですか…おれが、」
「これを破ったのは一条じゃない」
「でもっ、篠原先輩の大事な絵を…っ」
「これ、失敗作だよ」
「…え?」

 しっぱいさく?

「涙拭いて、落ち着いて見てみろよ。アトリエに飾ってた絵と、少し違うだろ?」

 ワイシャツの袖で目を擦ってから、床に置かれた絵を改めて見つめる。
 グラウンドを背に、幸せそうな笑みを浮かべる柳先輩。
 右下から左上に向かって広がる虹の着彩。
 言われて見れば確かに色調や柳先輩の表情が違う気がする。アトリエで見た絵はもっと…もっとおれの頭を占領した。

「本当はあっちが完成した時に捨てようと思ったんだけど、失敗作でもほぼ描き上がってたからなんか捨てるのが勿体無くてさ…。これで捨てるきっかけが出来たよ」
「篠原先輩…」
「そんな顔するなって。一条は何も悪くない。悪いのはこの馬鹿と、この馬鹿に振り回されて一条を傷つけた生徒だ」

 おれに向ける柔らかな口調とは違い、責めるようなキツイそれ。抱きしめている腕に力が篭る。
 僅かな震えを感じるのは、おれが震えているからか、それとも桜崎が震えているからか。
 よくわからない。

「………一条、馬鹿桜崎は煮るなり焼くなり、好きにしていいぞ」

 おれの背中に隠れて見えない桜崎の顔を暫く無言で見詰めていた篠原先輩は、ふいにそう言って立ち上がった。
 沈黙の間にどんなことを考えていたのかがわからず、え、と見上げたおれの頭に優しい手が下りてくる。

「何かあったらすぐ連絡しろよ。俺に出来ることなら何でもするから」

 少しだけおれの頭を撫でた篠原先輩は、はい、という返事を笑って受け取ってから美術室を出て行った。

 篠原先輩の言葉は不思議とおれの中に浸透する。桜崎に同じ台詞を言われたらその場で断るに違いないのに。
 おれに新しい「色」を教えてくれた人だからだろうか、篠原先輩の口から紡がれる言葉には何の抵抗も反発も覚えない。
 …とりあえず今は篠原先輩に連絡しなきゃならないようなことが起こらないように祈っておこう。



使用御題>>Fifteen title『止まらない恋』



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