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Vivid World 01


 色材の三原色、シアン・マゼンダ・イエロー。
 色光の三原色、レッド・グリーン・ブルー。

 それだけでこのせかいをひょうげんできたらどんなにいいだろう。



01:



 夏休みが終わっても、暑さは終わらない。
 新学期が始まって一週間が経った今日も美術室は相変わらず蒸している。

 既に描き始めている他の部員に軽く挨拶をしてから必要な道具を手に取り、窓際で準備を整える。イーゼルに立てかけた絵はまだ下塗りの段階だけど、来週の提出には十分間に合うだろう。
 あと十日もあるし、今日からは集中してやれるし。

 筆洗にちょろちょろと水を注ぎながら窓の外を眺めていると、サッカー部の青いユニフォームに身を包んだ同室者兼クラスメイトがにこにこと駆け寄ってきた。

「やほ! サアヤ、はかどってるー?」
「お前が来るまでは捗ってた」
「嘘おっしゃい! 今水溜めてるところじゃんか!」

 気分的には捗ってたんだよ。
 窓から身を乗り出した市村(イチムラ)に口の中で呟いて蛇口を捻り、一気に水を溜める。

「なあ、今日はまだ桜崎(オウサキ)ふくかいちょー、来てねーの?」

 薄暗い美術室内をきょろきょろと見回す市村。担任の連絡事項くらいちゃんと聞いておけ。ていうかその名前を出すな。

 生徒会役員と文化祭実行委員は今日の放課後から準備で忙しくなることを伝えると、市村はなんだあ、とつまらなそうな顔になった。

「桜崎ふくかいちょーとサアヤの痴話喧嘩、見ようと思って来たのに」
「あれが痴話喧嘩に見えるなら精神科へ行って来い」
「えー、でもあれ、誰がどう見てもらぶらぶ痴話喧嘩じゃね? ねえ、きみらもそう思うよねー??、ぶふっ!!」

 らぶらぶ痴話喧嘩?
 冗談じゃない。気持ち悪いにも程がある。
 おれは黙々と自分の絵に取り組んでいる美術部員に馴れ馴れしく同意を求めた市村の顔面に濡れ雑巾を投げつけてやった。窓の桟に落ちたそれを見たのか、きったな!、という叫び声が背中に聞こえる。
 安心しろ、お前の野次馬根性のほうがよっぽど汚い。

「サアヤひどい!」
「早く部活に戻れよ」
「サアヤひどい! 桜崎ふくかいちょーに会えない苛立ちをオレにぶつけるなんてっ!」
「おれがお前にぶつけたのは汚い濡れ雑巾だ」

 ついでに言えば煩いお前に対する苛立ちをお前にぶつけたいと思いながら、手元に返って来た雑巾を元の場所に干す。

「…そんな冷静に返さなくたっていーじゃんかあ……、あ」

 恨めしげにおれを見つめていた市村の視線が後方にずれる。
 何だ? 何か珍しいものでも見つけたのか?
 何も言わない市村の視線をゆっくり追って背後を振り返ったおれの目には、

「総彩」
「っ、!」

 とろけるような笑みを浮かべた桜崎の顔が映って。
 はちみつのように甘い声が鼓膜を刺激した。

 予想外の出来事に硬直したおれに構うことなく桜崎はおれをぎゅっ、と抱きしめる。
 ワイシャツ二枚を挟んだだけの体温は相変わらずじんわり熱い。
 …何であんたがここにいるんだ。篠原先輩は昨日、暫く部活に出られそうにないって言ってたのに。

「‥先輩、放して下さい」
「嫩葉(ワカバ)」
「…………」
「嫩葉って呼んでって、言ったよね?」
「了承した覚えはありません。放して下さい。邪魔です」
「総彩の意地悪」

 …頭が痛い。眉間に皺が寄るのがわかる。同じ一年の美術部員にちらちら見られているのもわかる。
 気にするなというのは無理な注文かもしれないが自分の絵だけを見つめていてほしい。

 眉を顰めたまま視線を前に戻すとにやにや笑っている市村が見えた。
 何だその腹立たしい笑顔。もう一度濡れ雑巾を投げたくなる。

「サアヤ、良かったねえ、会えて」
「総彩、俺に会いたかったの? 嬉しい」

 言ってねえよ。誰も会いたかったなんて言ってねえよ。…市村、頼むから余計なことを言うな。
 初めて会った人間に向かって開口一番「きみがほしい」と言うような痛い人をこれ以上おかしな世界へ導かないでくれ。
 頭痛が酷くなる。

 肩口に顔を埋める勘違い男に肘鉄を喰らわせると、耳元で小さな呻き声が聞こえた。身体を反転させて向かい合う。

「っ…、」
「どっかの誰かさんが毎日押し掛けてくれた所為でまだ下塗りしか終わってないんです。提出期限に間に合わないと困るのでこれ以上邪魔しないで下さい」

 背後から手加減しろよ…、という呟きが聞こえる。煩いな。ちゃんと手加減したっつの。これでも一応先輩だし、副会長だし。

「…ごめんね、総彩」

 いてて、と言いながら腹部を押さえていた桜崎の白い手がおれの右手を掬い上げる。じわ、と伝わる高い温度にぴくりと指が動く。
 偏見かもしれないが、色白なのに体温が高いのは不思議な感じがする。どちらかと言えば色白に分類されるおれとは比べようもないけれど、おれは体温も平熱も一般的だ。

 そんなことをぼんやりと考えていた所為か、おれは桜崎の唇が掬い上げられた自分の指に落とされるまで、その行動を止めるという意志を持てなかった。

「っ、」
「もう邪魔しないから。見てるだけにするから」

 お願いだから、手を大事にして。

 桜崎は目を伏せ、腕捲りで露になっている肘の内側に口付けた。
 酷く優しい、拒絶することを躊躇ってしまうほどの、慈しむようなキス。
 日本で生まれ育ったのか、異国で生まれ育ったのか。そんなことは知らない。でも、桜崎は初めて会った日からずっと、おれの手にその薄い唇を落とす。
 何の躊躇いもなく。

「、……先輩には、関係ない」
「あるよ。俺は総彩が好きだから。総彩の手も、大事」
「‥理解、出来ない」

 声も態度も甘ったるいくせに目だけは怖いくらいに真剣だから、おれの頭は知りたくもない真意を探ろうとする。
 見つめて、見返して。
 でもきっと桜崎はそれを掴ませてはくれない。
 多分意図的に隠してる。

 そんな人間に好きだと言われても、手を大事にしろと言われても。
 はいそうですかわかりました、なんて。
 簡単に言えるはずがない。

「今はいいよ、それでも」

 今は、って何だ。近い未来には理解しろって言うのか。

「――総彩の分まで、俺が好きでいるから」
「…意味わかんない」

 薄い皮膚を通して伝わる震動。
 おれの腕を掴む手がどうして震えているのか。
 そんなのは知りようがないし知りたくもない。

 桜崎の手から腕を引き抜いて目に見えない汚れを払うように反対の手でさする。捲り上げていた長袖のワイシャツを手首まで下ろした時、美術室の入口によく知る先輩が姿を現した。
 篠原先輩。
 おれの呟きは喉の奥に消え、すたすたと歩み寄ってきた篠原先輩は手に持っていた紙の束を振り上げる。

「痛っ!」

 後頭部を叩かれた桜崎は短く悲鳴を上げて背後を振り返り、眉を顰めた篠原先輩の存在に気づく。

「職員室に資料を取りに行くのに何分かかってるんだ。みんな待ってるんだぞ」
「…迷った」
「ふざけた言い訳は要らない」

 桜崎は会長の篠原先輩に鋭く切られて言い返す言葉もないらしい。当たり前だ。美術室の場所がわからなくて職員室に行くことはあっても、職員室の場所がわからなくて美術室に辿り着くことはない。
 バレてるんだから素直に謝ればいいのに。言い訳するような男が副会長なんて間違ってる。

「一条(イチジョウ)、ごめんな。邪魔だっただろ」
「あ、いえ…」

 その点、篠原先輩は実に漢前で格好いい。
 前は眼鏡をかけていてあまり目立たない生徒だったらしいけど、全然そんな風には見えない。授業も部活動も生徒会活動もきちんとこなしている、尊敬すべき先輩だ。

「桜崎は俺が連れて行くから、時間がくるまでゆっくりやってくれ」
「ありがとうございます」

 桜崎の襟首を引っ掴んだ篠原先輩の言葉に思わず笑みを漏らすと、桜崎が頬を膨らませた。

「総彩酷い。俺に対する態度と全然違う」
「当たり前です」

 どうして篠原先輩と桜崎に同じ態度をとらねばならんのだ。
 同じ三年で同じ生徒会役員でも、篠原先輩と桜崎では天と地ほどの差がある。

「お前は暴走しすぎだ。もう少し一条のことを考えろ」
「何だよ、篠原だって去年は柳に付きまとわれて苦労したくせに」
「一条に苦労させている自覚があるのか?」
「…………」

 篠原先輩に睨まれた桜崎は顔を背け、俺は苦労なんかさせてない、と呟いた。…滅茶苦茶苦労させてるじゃねえかこの野郎。苦労させられているというよりは迷惑している、だけど。

 おれと同じ高等部からの外部生である篠原先輩には、柳佳寿也という恋人がいる。市村から聞いた話によると、柳先輩は去年の春の放課後に突然篠原先輩に告白し、振られたにも関わらず、昼休みや放課後など、時間を見つけては押し掛けていたらしい。
 今は恋人でも当初は拒んでいたと言うから、確かにおれがおかれている状況とよく似ている。

「自分で作り出せるお前には絶対わからない。俺の気持ちなんて」

 視線を外したまま無機質な声を発した桜崎。背後でそれを聞いた篠原先輩は不愉快そうに眉を顰める。

 …自分で作り出せるって、何を?
 桜崎は篠原先輩に嫉妬してるのか?

 おれは意味不明な言葉に首を傾げるが、篠原先輩には通じたようで、芯の通った声が空気を貫く。

「弱者ぶりたいなら一生そうしていればいい。だけど、忘れるな。暴走した感情が最後に傷つけるのはお前自身だ」
「…、……」

 襟首を掴んでいた手が離れる。桜崎を連れ戻しに来たはずの篠原先輩はおれたち後輩に短く謝罪したあと、美術室を出て行ってしまった。

 ……これ以上は付き合えないってことなのか?
 それとも、頭を冷やせってことなのか?

 ドラマのワンシーンのような出来事に桜崎以外は暫く黙ってドアを見つめていたが、絵を描かなければと思い出し、作業を再開する。
 窓から身を乗り出していた市村はいつの間にか消えていた。



使用御題>>Fifteen title『止まらない恋』



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