午後からバイトがあるというリタを土下座する気持ちで送り出したおれは、溜息を一つ吐き出すと、ヨージとユージがいるリビングへ足を向けた。 二人が何を考えて何をしたいと思っているのかなんてわからない。 一晩中起きていた理由もさっぱりわからない。 だが、それらを知る為におれが努力する必要はないだろう。 二人とも赤の他人で、客として招いたわけではないのだから。 朝っぱらから面倒なことを考えて鬱々とした気分になるなんて、御免蒙る。 「「!!」」 ガチャリと音をたててドアを押し開くと、大きな窓から差し込む太陽光に明るく染められた室内で、二つの影が同時に頭を上げた。 息はぴったりでも、座ってる場所は対角か。 そんなに傍にいたくないなら帰ればいいのに。 「ノリト……っ」 「…っ‥、」 「―――、何だ、その顔」 二人の顔を見て思わず足を止める。 ヨージもユージも昨日と全く同じ格好だったが、明らかに顔は違っていた。 唇の端は切れて血が滲み、頬や目元には青紫色の痣。 どこからどう見ても喧嘩をしましたという顔だ。 「ノリト、俺…っ、」 「ストップ。話しは後だ。少し待ってなさい」 ヨージの言葉を遮り、入ったばかりのリビングから出て洗面所へ向かう。 吊戸棚にある救急箱を取りに行く為だ。 外で元気良く遊びまわる年齢はとっくに過ぎたし料理も滅多にしないから怪我をすることは殆どないが、最低限必要なものは使用期限に注意して揃えてある。 救急箱の他にお湯を入れた洗面器と綺麗なタオルを持って戻ったおれは、中央のローテーブルにそれらを置き、二人に並んで座るように告げた。 勿論、殴り合いの喧嘩をしたと思われる二人が素直におれの指示に従うはずもなく、数秒、二人は無言で睨み合ったが、おれがソファーの一箇所を乱暴に叩くと、慌ててそこに移動した。 「きみたちには成人しているという自覚がないのかな」 「「…………」」 「喧嘩するなとは言わないが、手当てくらい自分でちゃんとしなさい。そんな顔でバイトや授業に出たら周囲の迷惑になるでしょう」 「「……ごめんなさい」」 「まったく…」 何で起きて早々、今年二十二歳になる男子大学生の手当てをしなきゃいけないんだ。 マイナス二十歳なら可愛いもんだが、成人男子には可愛げも愛敬もない。 おれの部屋に勝手に上がりこんでおきながら、リタが折角作ってくれた朝食も食べず――冷蔵庫に入っているらしいからおれが後で有難く頂きます――、傷を洗ったり冷やしたりすることもせず。 本当、何がしたくて居座っているんだか。 ここに居てくれなんて家主のおれは一言も言ってないんだけどな。 溜息を吐きつつも邪魔な前髪をパイナップル結びにして視界を良好にし、お湯に潜らせたタオルを絞る。 「先に殴ったのは?」 「………俺」 「じゃあユージからだな」 質問するとヨージが俯きながら答えたので、ユージの前に膝をつく。 頬に手を添えながら血が固まっている口許を丁寧に拭いていると、じっと見つめてくる視線が気になった。 「少年、凝視するのはきみの癖か? それとも、本気でおれの顔に穴を開けたいとでも思ってるのか?」 「‥違ぇよ」 「じゃあ何だ?」 「アンタが綺麗なのはわかってたけど、意外と派手な顔立ちだったんだなと思って」 「……」 「美人なんだから外でも顔出せばいいじゃん。勿体ねえ」 作業を続けながら目線を上げた先にはユージの真っ直ぐな瞳があった。 自分の台詞に照れている様子は見受けられない。 …なるほど。 こういう所が年上の女性には堪らないのか。 男のおれはちっとも嬉しくないが。 「少年は『勿体無い』という言葉の意味を正確に把握しているのかな」 「は?」 「広辞苑には『そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい』と記されている。だからおれはちっとも勿体無いとは思わない。むしろ無駄になることは万々歳だ」 「……何でだよ」 「何で? そんなの決まってるじゃな、っ!?」 「!」 手を止めて脳内のゴミ箱にぶち込んだ記憶を掘り起こそうとした時、おれは不意に加わった横からの力によって体勢を崩した。 誰が何をしたのかなんて確認するまでもない。 おれの左側にいたのはヨージだけだし、現在進行形で抱えるようにして抱きしめられているおれの狭い視界にはピザ屋のカラフルな制服が映っている。 ヨージの恥ずかしい過去を暴露しようとしたわけでもないのに、どうして発言を中断させられなければならないんだ。 「至近距離で見てんじゃねぇよ」 ユージに向かって不機嫌な声を出すヨージ。 おれはそんなヨージの顔面目掛けて濡れタオルを振り上げてやった。 「ぶっ!!」 「手当ての邪魔をするんじゃない」 「っ、だって――――」 不満そうなヨージの鼻をぎゅっと摘む。 「だって、何だ? おれが納得する理由があるのか? あるなら十文字以内で言ってみろ」 「、…」 「ないなら大人しく座って待ってなさい」 「‥っ、…、…」 正直に言って、今のおれは気分も機嫌もあまり良くない。 家から追い出さずに手当てをしているのは確かにおれの意志だが、大丈夫?痛くない?、なんて気遣いは微塵もない。 鼻を摘む指にもかなり力が入っていると思う。 ――――けれど。 ヨージの切れ長の瞳に張った水膜が端からゆっくり決壊するのを見た瞬間、おれの手はヨージの頬に伸びていた。 「ご、ごめんっ、痛かったか!?」 「っ、……」 「、痛かったんだよな?? ごめんヨージっ、おれが悪かった! だから泣くな! なっ??」 「…!!」 タオルの綺麗な面で涙を拭いながらどうにか宥めようとしたのに、泣くなと言った瞬間、ヨージの目からはぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちてきた。 何でだよ! 「よ、ヨージ、どうした?? ちゃんと息出来てるよな??」 「…じ、め……って…」 「ヨージ、ゆっくりでいいから。何?」 「っ、ノリト、はじめておれのこと‥ヨージ、って……ヨージって、呼んで、くれた…っ」 「――――……」 そんなことでぼろぼろ泣いたのかよ、と思う。 別れた相手に名前で呼んでもらえないのは至極当然のことだろう、と思う。 でも、あのヨージが子供みたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣くとは夢にも思っていなかったから、それを言葉にすることは躊躇われた。 「っく……ず、…ぅ゛…っ」 「あー、もう! おれが悪かったから泣き止めって!! ヨージ、おれが涙に弱いの知ってんだろうがっ!」 二日連続で涙を見せられたおれの方が泣きたい。 NEXT * CHAP |