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キス魔笑顔だ。14.5



「……香?」

「‥四之宮か」

 資料室で香が志寿也に押し倒されている頃、涼一は美術室で絵を描きながら香を待っていた。





キス魔笑顔だ。




 上下黒のジャージに均整のとれた身体を包む黒髪の男。

 細身で華奢な香とは似ても似つかないその人物に、入口を振り返った涼一は目を丸くした。

「斉藤先生…、こんにちは。珍しいですね。もうじき課題の提出なんですか?」

 部長と副部長ですら幽霊部員なら、担当の顧問も幽霊顧問。

 涼一と香が部活を行っている時に顔を出すことはゼロに等しい。

 だが美術部顧問の斉藤は一年の選択美術を受け持っており、課題提出の直前に進行具合をチェックすることが年に数回ある。

 斉藤の姿を見てそういえば今頃だったよなと去年の記憶を掘り起こした涼一がそう訊くと、斉藤は頷きながらドアを閉めた。

「ああ、来週から忙しくなる。…お前こそ、篠原といないなんて珍しいな」

「先に行っててくれって言われたんです。香は世界史の先生に用事を頼まれたので」

 もうそろそろ来る頃かなと壁掛け時計と相談しながら、この間の金曜日は日本史の先生に用事を頼まれたんですよ、と続けると、棚から大量のスケッチブックを取り出していた斉藤は、腕に抱えた濃緑色の塊を傍の作業机に置いてから、篠原らしいなと言った。

 その返事を聞いて、涼一はそうですねと静かに笑う。

 日常的に香と関わっているわけではない人間の中で、今の話から篠原らしいという考えを抱くのは、恐らく斉藤だけだろう。

 親友である涼一や、涼一と付き合っている山崎なら、極自然に彼らしい、と感じる。

 篠原香という少年は、短く切り揃えられた色素の薄い髪と眼鏡の奥から覗くちょっと釣り気味の瞳から、若干神経質な優等生という印象を与えがちだが、実際は向上心が強い努力家で、自分に求める理想が高い割りには他人を不用意に巻き込むことがなく、何かを頼まれれば物理的に不可能な事以外は引き受けてしまう、優しい性格だからだ。

 けれど見目の麗しい人物を崇め奉り、涼一のことを『儚げ美人』と褒め称えるこの学園では、誰からも好かれていた中学時代の彼を普段の生活で見ることは出来ない。

 その為、彼は学年次席であるにも関わらず『四之宮くんの平凡な幼馴染』という不名誉なレッテルを貼られ、日直でもないのに仕事を頼まれれば、周囲はいい気味だ、ざまあみろ、と嘲笑うのだろう。

 実際、くすくすという感じの悪い笑い声は涼一の耳にも届いた。

 当の本人は社会科教科室が目下拒絶中である人物の教室付近にあることに頭を悩ませ、見下すように笑うクラスメイトになど気づいていなかったようだが、自分はあの醜い顔をきっとずっと忘れないんだろうなと涼一は思う。

 容姿が端麗であれば何をしても許される――そういう校風を当たり前のように受け入れている彼らにとって、男子校色に染まらない香が異常であるように、幼い頃からずっと香の気高さを感じてきた涼一にとって、外見や自分の欲望の為に平然と相手を傷つける彼らの言動はこの上なく異常なのだ。

 邪心など欠片もない香の笑顔の対極に位置するあの醜さは、忘れようと思って簡単に忘れられるものではない。

「………四之宮。あれからは、何もないよな?」

 コンテを持った手をだらりと下げたまま動きを止めている涼一の意識を呼び戻したのは、一人一人のスケッチブックを捲って進み具合を見ている斉藤の問いだった。

 不意に投げかけられた言葉の意味を咄嗟に理解することが出来ず、涼一は顔を上げる。

「え?」

「準備室の鍵を常にかけるようにしてからは、何も起きてないよな?」

「‥、!」

 心なしか真剣味を帯びた声に、涼一はきゅっと唇を結んだ。

 常時開放され、美術部員の道具置き場となっている、美術準備室。

 外に面する窓以外は施錠する必要がなかったそこに常に鍵をかけるようにしたのは香の為で、その原因を作ったのは涼一だった。

「……何もありません」

「そうか…――悪かったな」

「え‥?」

 突然且つ予想外の謝罪に、涼一は脳裏に浮かんでいた嫌な光景を忘れ、前髪に隠れた瞳をきょとんと見返す。

 一体何が悪かったと言うのだろうか。

 準備室の鍵を常にかけて欲しいという身勝手な要望を受け入れてくれたのも、自腹を切って作った合鍵を香に渡してくれたのも、斉藤だ。

 感謝することはあっても、謝ってもらいたいと思ったことは一度としてない。

 むしろ謝るべきなのは余計な面倒をかけた自分の方だろう。

 だが、斉藤は涼一の胸中を見透かしたように、首を横に振った。

「お前が謝ることはない。部室でもある準備室を当たり前のように開放していた学園と俺の考えが甘かったんだ」

「でも…、」

「このところ、篠原が一年の柳に付きまとってるっていう変な噂を聞いたから、若しかしたら…って思っただけだ。お前にそんな顔をさせたかったわけじゃない」

 山崎に見られたらどうするんだ、とからかうように続けた斉藤に、涼一は身体から力を抜いて、何のことですか、と微笑んだ。

 斉藤という男は、教育熱心なわけでもなく、生徒思いの良い先生というわけでもないのに、真面目に取り組んでいる生徒に対しては誠実さを見せ、他者との関わりを望もうとしない一匹狼タイプの割りに、ちょっとした付き合いで相手の本質を見抜いてしまう。

 だから香と関わった時間が極僅かでも、続けて用事を頼まれたことや、涼一を付き合わせなかったことに、篠原らしい、という言葉が出てくるのだ。

 入ったばかりの頃は見るからにやる気のなさそうな顧問だなと思ったが、今ではこの男が美術部の顧問で良かったと思っている。

「斉藤先生。柳くんの方が香に付きまとってるんですよ」

「わかってる」

 まさかその馬鹿らしい噂を信じてるわけじゃないですよねと言わんばかりの輝かしい笑みを浮かべる涼一に、だから変な噂って言っただろ、と斉藤は苦笑を漏らす。

 学園の生徒たちから『天使の微笑み』と称される笑顔とは真逆のそれを何の躊躇も無く向けられる自分は、彼に認められた数少ない人間なのだろう。

 正直なところちっとも嬉しく無いが、などと斉藤が考えていると、美術室のドアがノックされた。


―― コ ン コ ン


「失礼します」

「…、柳くん……」

 明瞭な挨拶と共に入ってきたのは、今し方名前を口にした柳佳寿也だった。

 およそ一週間ぶりにその姿を視界に捉えた涼一は驚きと困惑が混ざったような表情で柳を見つめ、一度美術室内を見回した柳は、少しやつれた様に見える顔で涼一と視線を合わせる。

「四之宮さん…。香先輩はいらっしゃいませんか?」

「いないよ、残念ながら」

 予想通りの質問に嘘をつくことなく答えた涼一はふと壁掛け時計を見上げ、思ったより時間が経過していたことに気づく。

 世界史の教師が香にどんな用事を頼んだのかは知らないが、一人しか指名しなかったのだから、大して時間はかからないはずだ。

 けれど、涼一が香と別れたのは今から三十分も前のこと。 

 いくら何でも遅すぎるのではないだろうか。

 若し予想外に大変な用事だったとしても、香の性格なら遅くなるというメールを送ってくるに違いないのに、ポケットの携帯は一度も震えていない。

 急に不安を覚え、携帯に手を伸ばした涼一は、けれどキュッという悲鳴のような摩擦音にその手を止めた。

「っ……、? え、柳くん??」

 顔を柳の方に向けた涼一の目が映したのは柳の後姿で、それは一瞬の内に消えてしまう。

 何も言わずに突然出て行ってしまった理由がわからず、後ろで同じように首を傾げている斉藤と視線を合わせた時、今度はどんっ、という衝突音が聞こえてきた。


「うわっ!!?」





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