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「ごき? ごきさん出たの? だからこんなにきたないの?」

 十夜と百音の大きな声ですっかり目が覚めてしまったのか、部屋に戻らなかった零音は大きな目をぱっちりと開けて百音のスカートの裾を引っぱる。

 五十センチ強という身長差の所為で随分下にある零音の可愛らしい顔に思わず抱きしめたい衝動を覚えながらも、この状況でそんなことが許されるはずはないと、百音は少し腰を折り曲げて苦笑する。

「そうなの。ごめんね。朝ごはん、ちょっと遅くなっちゃうかもしれない」

「へいきだよ! レー、いつもいちばんのりだから」

 無邪気な笑みを見せる零音に百音はそうだったねと微笑んで頭を撫でた。

 零音を毎朝校門まで送り届けているのは方向が同じ千早なのだが、千早はいつもそのまま大学へ向かうので、電車の時間の関係で他の生徒たちが登校するよりも早く着いてしまうのだ。

 友達の生徒どころか教師すら揃っていない時間帯に零音を登校させなければならないことに千早は多少の罪悪感を抱いているようだったが、零音と仲の良い女の子はキャリアウーマンの母に送られてそれから五分もしない内にやって来ると言っていたし、零音の送り迎えを考えて(幼稚園は小学校の隣にあるのだ)進学する高校と大学を選んだのだから、これ以上気を使わなくていいのにと百音は思っている。

「レーちゃん、顔洗いに行こっか」

「うんっ」

 零音の未だにぷにぷにした愛らしい手を握った百音は、キッチンの中で片付けをしながら姿の見えなくなったゴキブリを探している千早に声をかけ、「おー」という短い返事を貰ってから洗面所へ向かった。

 一方、十夜はすっかり和やかな雰囲気を醸し出している共犯者…もとい同罪者である百音の背中を不機嫌そうに横目で見送り、千早に視線を戻す。

 手早く元の状態に戻していく背中はあまり怒っているように見えないが、あれは怒っていないというより、怒りを通りこして呆れ果ててしまっただけだろうと想像がついた。

 謝るタイミングを考えていた十夜の視線の先で、ふいに千早の動きが止まる。

「…?」

 どうかしたのだろうかと寄りかかっている壁から背中を離した瞬間、千早は右足に履いていたスリッパを右手で掴み、目にも留まらない速さでそれを床に叩き付けた。

「!!」

 ベチンだかバチンだかよくわからないが、尖った音が鼓膜を突きぬけ、目を見張る十夜に気付くことなく傍に出しておいた殺虫剤をそこに吹きかける。

 十数秒間たっぷり缶の中身を噴射し続けた千早が、引き出しから取り出した布の切れ端で息絶えた黒い物体を掴んで小さなビニール袋に入れた頃、漸く呼吸を取り戻した十夜は瞬きを繰り返した。

 振り返った千早の目が何かを要求していることに気付き、口が開く前に慌ててキッチン側の壁にある換気扇のスイッチを押す。

 その飛びつくような動作が意外だったのか、千早は切れ長の瞳を丸くした後、一度笑みを漏らしてから十夜に言った。

「トーヤ、部屋で寝てる兄貴起こして来て」

「兄貴? 何で、今日早いの?」

「さあ、知らん。知らんが、俺より長く眠っていることが許せないんだよ」

 わかるだろ?、と微笑みかけられて、十夜は口許をひくつかせる。

 恐らく千早に一番迷惑をかけているのは十夜と百音だが、この家に一番迷惑をかけているのは誰よりも早く陸海(ムツミ)家に誕生した長男だ。

 なんせ、大学生の千早より稼げるはずのフリーターなのに、千早より睡眠を貪り、千早よりバイトを入れず、そのくせ一番食べるのだから。

 若し家計が火の車になって食事もままならなくなったら、切り捨てるのはゲームでも嗜好品でもなく、長男だと満場一致(勿論長男に発言権はない)で決まっている。

「で‥でも、兄貴起こすのいっつもチーちゃんじゃん。全然起きないから」

 どうやら朝っぱらから面倒事をやらかしてくれた自分と百音に対してより、いつまでも惰眠を貪っている長男に対して千早は静かに怒りを覚えているらい。

 そんな千早を無防備に眠っている長男のもとへ送るのは些か恐ろしい気がしたが、以前自分が起こそうとした際に物凄い力で布団の中に引っ張り込まれ、叩いても蹴っても抓っても離してもらえなかったことを思い出し、十夜は千早が起こしに行った方がすぐに済んでいいのではないかと提案する。

 だが、心なしか顔色が悪くなっている十夜に向かって、千早は爽やかに笑んでみせた。

「それなら問題ない。最初から優しく起こそうなんて思わずに、急所を家庭医学書の角で殴ればいいから」

「――!!?」

 千早の桜色の唇からさらりと吐き出された言葉に十夜は目を見開く。

 家庭医学書とは医者である両親が以前、無料で貰って来たものだ。

 この家の中で最も硬い本というわけではないのだが、思い切り振りかぶれる殺傷能力の高い本の中では、一番硬く重たい本である。

 それで急所を……。

 想像しただけで全身に鳥肌が立ち、無意識に後退してしまう。

「…………ばーか、何青くなってんだよ。冗談に決まってんだろ」

「じょ、だ……ってはァ!? 冗談!? チーちゃん、嘘言ったの!?」

 先程とは違う意味で十夜は目を見開くが、千早は冷めた目で突き放す。

「黙れ軟弱ぼーや。早出の日にその方法で起こされたくないんだったら、さっさとこの燃えるゴミ下まで持ってけ」

「えっ…俺が!?」

 百音が一体何を作ろうとして何を使ったのかはわからないが、ゴミ袋が異様に臭うのは明らかに彼女の無駄な戦いの所為だろう。

 ただでさえ四階から一階の外にあるゴミ捨て場まで降りていくのは面倒だと言うのに、異臭さんと一緒ではエレベーターにも乗れない。

 それにこの時間帯は通勤する誰かに絶対会うのだ。

 思わず眉を顰めてしまいそうな程のゴミを捨てに行く無様な姿など見られたくは無いと、十夜は差し出されたゴミ袋を拒否するが、口許に弧を描く千早がそれを許すはずは無かった。

「何か文句でも? ……お前は異臭を放つそれをゴミ箱に入れたまま俺に朝食を作れと言うのか?」

「っ、」

「言わないよなぁ…。なあ、トーヤ?」

「――陸海十夜、行かせて頂きます!! 喜んでっ!!」

 ゴミ袋を掴んだ瞬間玄関に向かってドタドタ走り出した十夜の背中に、千早は階下の人に迷惑だと思いながらも「いってらっしゃーい」と感情の籠らない声を投げかけた。

 ずがんばたんっ、と扉を壊す勢いで飛び出して行った十夜に部屋から顔を出した百音が「煩い馬鹿!」と叫び、同じ部屋から零音の「トーヤくん、もうがっこういったの?」という不思議そうな声が聞こえてくる。

 本当に騒がしいことこの上ないが、物凄く我が家らしい光景だと千早は小さく苦笑してしまった。

「両親不在なのに、平和っちゃあ平和だよな」





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