[携帯モード] [URL送信]
midnight color 1/2





 静まり返った廊下にコツコツと鈍い足音が響く。

 十一時や十二時頃ならシャワーを浴びる音やお風呂にお湯を入れる音が僅かに伝わってくるが、午前二時ともなれば殆どの人間が寝ているのか、自分の足音以外に聞こえてくる音はなかった。

 居酒屋でのバイトを終え、真っ暗な空の下独り寂しく帰宅した万里はジーパンのポケットから鍵を取り出し、そっと玄関を開ける。

「ただいま…」

 元気一杯に動き回る零音は九時、読書が好きな一季と宿題そっちのけでゲームに向かう十夜は零時、高校に通いながらモデルをしている百音は十時頃には寝てしまうので、万里が帰ってくる時間に顔を合わせることは滅多にない。

 バイトと家事と学業を真面目にこなしている千早は遅くまで起きていることが多く、いつも万里を出迎えてくれるが、今日は帰りが早い日だからもう寝ているだろう。

 しかし、返事がないことを知りつつも幼い頃からの習慣で挨拶を小さく口にした万里の目には洗面所のドアの下の隙間から漏れている明かりが映り、誰かトイレに起きたのだろうかと首を傾げた時、そこからタオルを被った千早がひょっこり顔を出した。

「兄貴、おかえり」




noisy colors * midnight color




「、チー…?」

 薄っすらと上気した頬、しっとりと濡れた髪。

 どこからどう見ても風呂上りである千早の姿に万里は首を傾げる。

 今日はバイトが早くに終わる日ではなかっただろうか。

「今出たのか?」

「ああ。兄貴も入るなら早く入れよ、冷めるから」

 千早は脱いだ靴をきちんと端に揃えた万里に柔らかな笑みを浮かべ、すぐ傍にある自室のドアを押し開く。

 入れ違うようにして洗面所に入った万里は手洗いと嗽を済ませてから部屋へ向かった。

「今日は早い日じゃなかったっけ?」

「あー、うん‥そうだけど、風邪引いて来られない子がいたから…店長に頼まれてさ」

 椅子に荷物を置きながら問いかけると、ベッドの上で入浴後のストレッチをしている千早は僅かに顔を上げて答えた。

 不満を漏らすこともなく、血色のいい唇は薄っすらと弧を描いている。

 万里はお人好し、と胸中で呟いた。

 自分にとっては貴重な休息を奪われたと思うことでも、本人の千早にとっては当然の行為でしかないのだろう。

 わざわざ想像しなくても笑顔で承諾する姿が目に浮かぶ。

「あんまり引き受けると都合のいいように使われるぞ」

「―――…そんなことないよ。俺が掛け持ちしてること知ってるし」

 畳まれた煎餅布団のように身体を伸ばしていた千早は上体を起こし、向かい側のベッドに腰を下ろした万里と視線を合わせる。

「毎回引き受けてるわけじゃない」

「でもチー、頼み込まれたら断れないだろ?」

「そりゃあ……。用事がなければ」

「‥もっと休む時間を作った方がいいんじゃないのか?」

 誰だって引き受けるだろ、という口調で言った千早に万里は眉根を寄せる。

 千早は過労で倒れたことはないが、過労が原因で質(タチ)の悪い風邪を引いたことは何度かあるのだ。

 千早大好きっ子の弟や妹が無理しないでね、と心配することも多い。

 しかし、身体を気遣う万里に千早は輝かしい笑顔を見せた。

「マリ男くんだけには言われたくないなあ」

「…………ソウデスネ」

 学校に通っているわけでもなく、率先して家事をやっているわけでもなく。

 フリーターという一番稼げる立場にありながら一月の給料が十万にもならない万里は、至極尤もな千早の発言に目を逸らしながら苦笑いを浮かべた。

 その反応に千早は溜息をつき、髪を乾かす為にベッドから降りようとする。

「俺に休めって言うなら、もう少し――――っ!!?」

「……チー?」

 ふいに言葉が途切れた直後、声にならない悲鳴が視線を外していた万里の耳に届く。

 不思議に思って前を向くと、上半身を捻った状態で千早が停止していた。

 度重なる不幸に打ちひしがれた悲劇のヒロインを思わせるその姿は、ドレスを着ていれば笑いをとるどころかカメラのフラッシュを浴びるのだろうが、千早は意味もなく変な行動に出たりはしないし、よく見るとシーツを握り締める手が震えている。

 一体どうしたのだろうかとベッドから立ち上がった万里は数歩で距離を詰め、千早の顔を覗き込んだ。

「チハヤ??」

「…、‥ッ、た…っ」

「え? 何?」

 腕の間に顔を伏せている千早は消えそうな声で何かを訴えようとしたが、認識できる音になったのはたった一つで、到底聞き取れるものではなかった。

 万里は顔を上げさせようと肩に手を伸ばす。

「ちは、」

「ッ、さわっ、な‥っ」

「えっ……」

 触れた瞬間、千早の身体がビクリと震え、強い拒絶の滲む声が万里の鼓膜に突き刺さった。

「ち、チハヤ??」

「…、‥っ……」

 思わず手を引っ込めた万里は泣きそうな顔で千早の名前を呼ぶが、千早はシーツを掴んだまま反応を示さない。

 どうしたのかもどうしたらいいのかもわからず、恐る恐る力の込められた手に触れると、小さく息を吐いた千早が縋るように万里の手をぎゅっと握った。

 予想外の出来事に目を丸くする万里の眼前で千早の顔が上がる。

「!」

「っ、あし、つった…っ」

「ッ…、……」

 千早の双眸が濡れていることも全くの予想外だった。





NEXTCHAP




あきゅろす。
無料HPエムペ!