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ゆらゆらとふるべ
惑い森の迷い路・3

 ぼたりと視界を赤い流体が落下する。つんと鼻をつんざぐ鉄錆より生臭く、温もりを持った匂いが、幻覚だと云う思考を放棄した。それほどまでにこの匂いは、空気は、足元に転がる骸たちは、あまりに鮮明過ぎる。さらりと視界を掠める服は、漆黒で腕の半ばまである外套に長衣――『ユル』の服で、ぐったりと重く、袖や裾には赤いものが雫を垂らしている。握る、鋏を分離させた様な双剣もだ。

『どうして』
『どうして』
『どうして』
『どうして』

 様々な声が同じ言葉を吐き出す。年端もいかぬ子どもが、女が、顔を半壊させた男が『ユル』に向かって血濡れた手を伸ばす。がさりがさりと地を這う音は、蟲毒の坩堝に放り込まれた様だ。新参者の蟲に集る古き蟲達に、『ユル』は呆然と立ち尽くしたままだった。いや、――すくんで動けなかった。

(このまま囚われれば、楽に、なるんだろうか)

 罪と、生まれながらの罪に耽溺すれば、楽になれるのだろうか。
 そう思うと、思考すら麻痺してきた。ぞぶぞぶと救いの無い闇が振り降りて来る。

「――!」

 だが、過去の帳は『ユル』を捉え損ねた。何かが、誰かが、その思考を否定する様に、『ユル』の首根っこを掴んだからだ。

 なんで、どうして。

 『ユル』は安楽を遠ざけたその手の主を地熱の様に揺らぐ怒りを以て見上げた。

「雪叢さん」

 お伽噺に登場する魔女の様な鍔広帽子には狼の尾に似た背の半ばまである飾りが、『ユル』の視界を宥める様に揺れる。『ユル』を簡単に越える長身の主で、顔は隠し布に依って虚ろな輪郭しか見えない。その姿には何となく見覚えがある。声音にさえ、妙に冷えた、けれど柔らかいものを纏うそれは、ひたりとなだらかに然し、明確に『ユル』の頬を叩いた。

「――え…?」

 次いで、ばちぃんと派手な音と衝撃が訪れた。

「雪叢さん、大丈夫ですか」

 ぱん、ばちんと容赦無く繰り出される追撃に、『ユル』は――いや、雪叢は追撃から逃れるべく、距離を取った。

「――…ああ、くそ!大丈夫だよ。悪いか、この馬鹿力め」

 ひりつく頬を撫でながら、雪叢は憑き物が剥がれ落ちた様に思考の歯車が回転し始めた。

「というか、何でお前が此処にいる――喜助」

 有り得ない喜助の登場に、雪叢は戸惑いを隠せない。喜助の肩口では兎もどきが簡単な顔でぷりぷりとご立腹の様だ。

「説明はいくらでもします。それよりも、早く此処を出ませんか」

 血塗れの手は様々な――通常はそうとして扱われないが殺傷力のある道具を握り、ぬばたま色に染まった眼球が不法侵入者こと喜助を睨んでいる。喜助はと言えば、いつもと変わらぬ風にゆっくりと立ち上がる。

 ――ざら。

 喜助の周りを撫でる赤みを帯びた黒き水。縦横無尽に周りを駆けるそれは、雪叢の手を霞める。水の様だが正体は砂の様で、雪叢の手を簡単に通り抜けて行く。

「山査子(さんざし)」

 名と共に流体は唐突に形を定め、喜助の手に現れた。ごつん、と地を穿つそれに空気がびりびりとしなる。過去の骸の眼球と同じ、いやそれよりも深く救いの無い、少しだけ血より暗い赤みのあるぬばたま色の大鎚。骸たちの視線が強張る。喜助は重力を感じさせぬ動作で、その降り被った。

「あ。それじゃあ、さようなら」

 あろう事か殺意剥き出しの骸に向けず、――足元に降り下ろされる。

 ――がしゃん。

 無機質なものを穿つ壊音(かいね)に、雪叢は改めて囚われていたのだと思った。
 あれだけ柔らかな湿度を持つ土が、匂いが、あっさりと叩き割られ、亀裂を走らせる。白黒の硝子の破片が雪叢の視界を舞う。その先にあるのは硝子と同じ色彩構成のせかい。脅えた様に佇む、兎もどきに似た様な熊もどきがいた。がちがちと震えていたその体がびくんと跳ね上がる。

 ――ざあ。

 熊もどきの体が、喜助の周りを舞った、あの砂の様に融解して地に溢れ落ちた。




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あきゅろす。
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