指切りA
私は教師になった。
数学を教える道に進んだのは、単に数字が好きだったから。
誰かが言っていた。
数字は人を裏切らない。全てが1か0で決まる世界は、何と無く居心地が良かった。
「でも、」
「でも?」
私は持っていたペンをテーブルの上に置いた。
かたん、と少し濁った音がする。
「最近、ダメなんです」
お代わりした珈琲が目の前に。砂糖を入れて、続いてミルクも入れた。
教授は、急かすことなく私の次の言葉を待っている。
「生徒達に授業をしていても…私の書いた公式や定理が、なんだか本物じゃなく見えてきて…無性に消したくなるんです」
「数学が嫌いになったとか?」
「いえ、嫌いな訳では無いんです」
ただ私を襲うのは、
言い様の無い虚無感だった。
メネラウスがどうしたと言うのか
2の平方根の値が、一体何だと言うのか―――
「はるかは」
乾く口内に流した珈琲の灰色と共に、その名前まで飲み込んでしまいそうになる。
私は彼女を呼ぶ度に、少し胸が苦しくなる。
「はるかなら、何て言うでしょうか」
「………」
私は何時も何かに躓いた時、煮詰まった時…“彼女”に救いを求める。
三島 遥という女性は、強い人だった。
私の前に現れた彼女が、本当にそこに在ったのかは分からない。
只、こうして目の前に座る彼が…三島遥は実在した、と言ってくれた。
実在した
10年程、前に
「…そうだ、」
教授は黙ってしまった私を見て、持っていた鞄から2枚の写真を取り出した。
「これは…?」
「遥です」
テーブルの上を写真が滑る。私はそれを軽く会釈して受けとった。
「貴女に初めてお会いした時からずっと探していまして…昨日やっと見つけました」
彼は写真が好きでは無いようだ。自分の手元にあったのも、これだけだと言った。
「…ああ」
1枚は学生時代の写真だった。制服を着て、教授と2人で立っていた。その背には淡い桜の木々達が並んでいる。遥の栗色の長髪が揺れている。風の薫りと空気が、ここにまで伝わって来そうだ。
もう1枚は、どうやら何処かの教室の様だった。2人は学生では無いのか、制服は着ていなかった。
遥は真っ赤なスーツを着ていた。教授の話では、刑事をしていたらしい。髪は短く切られていて、彼女の活発さがうかがえる。
「こちらは、私が高校を卒業した時のもの。そちらは、私達が成人してから立帝大学で撮ったものです」
成る程、ここは大学の教室なのか。
暫く2枚目の写真を眺めていると、教授が「気になりますか」と訊ねてきた。
「何と無く、懐かしい感じがします」
「…行ってみますか?ここに」
「え?」
突然の言葉に驚いた。
それでも私は、
「ぜひ、」
直ぐに、頷いていた。
《続く》
無料HPエムペ!