闇の先には
闇の先には M
「なぜじゃ......」
今や部屋を追われ渡り廊下へと這い出た翡翠は、わが身に向けられた鈍色の切っ先を見つめていた。
腕を一振りすればもう、己を容易く傷つける事が出来るだろうそれと、それを握る男の纏う殺気が、翡翠をその場に凍りつかせる。
「なぜじゃ.....」
震える唇が呟き、翡翠は突然がくりと肩を落とした。
「なぜじゃ...なぜじゃ...」
いきなり泣き崩れ、そう繰り返す。
「なぜじゃぁ....」
細く絞り出す悲痛な声に呼応するかのように、庭の木々がざわざわと葉を揺らした。
突然冷たい夜風が庭を吹き抜け、空にくっきりと浮かんでいた月は、いつの間にか雲に覆われていた。
―ー雨が降るな……
ネジは鼻腔を掠める湿った匂いに眉を潜めた。
―ーかたをつけるか
幼子のように泣きじゃくる翡翠を見下ろす目が、一層冷たさを増した。
「これが最後だ」
泣き脅しなど通用しよう筈がない。
「術を解け。従わぬなら殺す。桃香を救うためならお前の命を奪うことに躊躇いは無い。」
さぁ選べ、俺の言葉に従うか、死か。
抑揚の無い低い声が最後通告を突きつけ、見上げる翡翠の視界からネジの姿が消えた。
「ひぃっ......」
引き攣る声が翡翠の喉から絞り出る。
一瞬の間にネジに背後を取られ、髪を後ろに引かれて鷲掴みにされていた。
反り返る喉元が露になり、冷たい刃が狙いを定める。
チクリと痛みが走るとそこにうっすら血が滲み、ネジの言葉が嘘や脅しではないという証拠となる。
「さぁ、どうする。」
「くっ.....あ..」
涙に濡れた瞳を見開き、背中から伝わる殺気にカタカタと身を震わす翡翠の唇が何か伝えようと開かれては閉じて、辛うじて自由の利く右手が、短剣を突きつけるネジの腕を掴んだ。
だがそのか細い手はネジの腕を払うことなど出来ず、はらりと、力なく落ちてしまうのだった。
重苦しい沈黙が流れた。
やがてそれを途切れさせたのは翡翠の頼りない声。
しかしその口調はがらりと変わっていた。
「なぜ....どうして私じゃいけないのですか....やっと、自由になれたのに.....」
それはネジが初めて翡翠に出会った頃の、まだあどけなさの残る、一族を護るために大名への哀れな生贄となった、あの時と同じものだった。
「翡翠......」
訝しんだネジがその名を呼ぶと、翡翠はふふ...と小さく笑った。
「私は....何一つ望むものを手に出来ないのですね。それならもう.....生きている意味はありません。」
ザクッ!!
「翡翠!?翡翠!!」
風が舞い、霧雨の振り出した夜闇に、ネジの叫び声が響いた。
「っ......馬鹿なっ!!」
どこにそんな力があったのか、翡翠は髪を後ろに引くネジの力に逆らって、自ら短剣の刃先へとその首を押し付けていた。
鮮血が滴り、翡翠の胸元を朱に染めてゆく。
すぐさま短剣を投げ捨て、赤い口を開ける翡翠の首筋に手を当てて止血を試みるネジに、だが翡翠はゆっくりと首を振るのだった。
「このまま...死なせてください....骸は故郷へ...私の...最後のお願い....です....」
ネジ様...ごめんなさい......
翡翠の唇は最後にそう形作った。
「翡翠っ」
名を呼ばれ、微かに頷き、満足そうに微笑む。
そしてそのまま....
抱きかかえるネジの腕の中で、がくりと頭(こうべ)を垂れたのだった。
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