闇の先には
闇の先には I
どれぐらい眠っていたのだろうか。
少しずつ意識が浮上し始めた桃香は、温かな布団の中でゆっくりと伸びをした。
ぼんやりと視線を巡らせた室内にはランプの灯りが点され、壁際に置かれた衣桁には桃香が着ていた着物がきちんと掛けられていた。
もう終わってしまったのかしら……
眠りにつく前は微かに聴こえていた筈の宴の喧騒が、今は全く耳に届かない。
どうやらすっかり眠りすぎてしまったらしい。
しかし久しぶりの心地よい眠りが、桃香の蒼白かった頬に血色を取り戻させていた。
温かい。ここに…いるのね
下腹にそっと手を伸ばせば、そこはいつにも増して温かいように感じられた。
確かに息づく新しい命が、ここにいるよと主張しているかのように…
++++
『おめでたです。』
木の葉病院から来た医療忍者のサクラが嬉しそうにそう言ったのは、ネジが客の相手をしに向かって暫くしての事だった。
『本当で御座いますか?』
思わず聞き返す桃香に、サクラはにっこりと微笑んで頷いた。
『はっきりと反応が出ていますから。吐き気や嘔吐は悪阻で間違い無しですね。お話を聞く限り2ヶ月目に入った所でしょう。』
検査試薬に現れた反応を見せられ、可能性が現実に変わった。
2ヶ月…
ネジ様の子が私のお腹に…
胸にじんわりと温かい思いが広がった。
愛する人の子供を宿すことが出来たと言う無償の喜びが沸き上がる。
知らず口元が緩んでいた。
『もうお腹や腰の痛みはありませんか?』
『はい。もう大丈夫です』
桃香はコクりと頷き、傍らに控える瑠璃を振り返った。
『桃香様……』
今にも泣き出しそうな表情で何度も何度も頷いた瑠璃は、やっとの思いで震える唇を開いた。
『おめでとう御座います。桃香様』
言ったそばから嬉し涙がポロリと零れ落ちる。
その姿が桃香の胸をぎゅっと締め付けた。
瑠璃には本当に色々助けられている。
桃香がこの日向の家に住まうようになり、まだ周りの者達に受け入れられていない時からずっと、瑠璃だけは優しく心の籠った態度で身の回りの世話をしてくれていた。
瑠璃が居てくれなかったらきっと、自分はこうしてここには居られなかっただろうと桃香は思った。
『有り難う……』
正座した膝の上に置かれた瑠璃の手に手を伸ばし、ぎゅっと握った桃香の目にもまた涙が浮かんでいた。
『桃香様……』
『貴女がいてくれたから、私はこうして喜びの日を迎えられたのです。有り難う……此れからも色々助けてちょうだいね。』
『勿体無いお言葉……』
主人からの心の籠った感謝の言葉は、瑠璃にとってこの上ない喜びだった。
重ねられた手を握り返し、涙を押し込めて瑠璃は必死に笑顔を作った。
『勿論ですわ。私の命に代えましても桃香様とお腹のお子様をお守り致します』
見詰め合う主従の顔に笑顔が広がった。
+++
こんなに幸せな気分を味わうことが出来るなんて、思っても見なかった。
明日にでも病院へ来るようにと言い残していったサクラは、まだ本当に小さいけれど、超音波で赤ちゃんを見ることが出来るとも言っていた。
「早く会いたいわ」
桃香は今からその時が楽しみで仕方がなかった。
「アナタは私の宝よ……」
そうお腹の中の赤ん坊へ語りかけ、何度目かわからない幸せの溜め息をついた時だった。
カタン……
微かな音のした方を見遣ると、襖が開けられるところだった。
そこに現れたのは白い寝間着に着替え終えたネジの姿。
風呂も済ませたらしく、まだ湿気を含んだ長く美しい黒髪が妖艶な雰囲気を醸し出していた。
なんて綺麗……
その姿に桃香は暫しみとれてしまうのだった。
改めて自分の夫の凛々しくも美しい姿に惚れ惚れとしてしまう。
「起こしてしまったか」
桃香の視線に気付いたネジは後ろ手にそっと襖を閉めると、足音もたてずに布団の側へとやって来た。
「ネジ様……」
「そのままで良い」
ふと我に返った桃香が慌てて身を起こそうとするのを制し、ネジは優雅な身のこなしでその場に腰を下ろした。
ふわりと鼻腔を擽る湯上りの清潔な匂い。
桃香はうっとりと夫を見上げていた。
不思議な物だ、ここしばらく桃香を苦しめていた嘔吐感は全く成りを潜めている。
数時間ぐっすり眠ったおかげで、いつになくゆったりとした気分でこうしてネジと過ごせることが、とても嬉しかった。
「気分はどうだ」
額にかかった髪を払ってやりながら、ネジは覗き込む様にして桃香の顔色を伺った。 頬に朱がさし見た目にも顔色は良くなっている様だ。
「はい。眠ったお陰ですっかり良くなりました」
「そうか…良かったな」
満足そうに頷いたネジは、ふと枕元に置かれた白い紙袋に目を止めた。
『処方薬』
と書かれているそれは木の葉病院からの物だろう。
ネジは袋に手を伸ばし、中身を取り出した。
「あ……それは、ビタミン等を補う栄養剤です」
「そうか…」
桃香からの説明に頷きつつ、1種類ずつ手に取り確認する。
葉酸、ビタミン、カルシウム…
どれも普通にバランス良い食事をしていれば摂取出来る物のようだが。
これ等を特別に取り入れなければならないとなれば、やはり……
「あの…ネジ様……」
じっと錠剤を見詰め思考していると、桃香がおずおずと声をかけてきた。
「何だ?」
もう見ずとも解っていた。
目をあげるとそこには、少しの恥じらいと大きな喜びの入り交じった瞳が、ネジを見上げていた。
「ネジ様…。」
これ程幸福そうな顔を見たことは無かった。
隠しきれない喜びが桃香の口元に笑みを象らせる。
「やはり…ネジ様の子が宿っておりました…」
そう告げて、桃香は恥ずかしそうに目を伏せた。
「……………………」
何と言ったら良いのか。
ネジは押し黙った。
いや、嬉しいのだ。
嬉しくて柄にもなくはしゃいでしまいたい位だ。
だがそれ以上に……
知らぬこととは言え自分が行なった先刻の振る舞いが、桃香に対してどれ程酷い行いだったか改めて思い知らされ、深い後悔の念に駆られた。
故に、暫し沈黙してしまったのだ。
が、その結果、
「…ネジ様?」
目の前の桃香の表情が見る間に曇って行った。
「あの…ネジ様…」
小さく名を呼ぶ声に不安が滲んでいた。
たまらず半身を起こし、ネジの真正面に座り直そうとする肩が、小刻みに震えている。
「チッ……」
ネジは自分の仕出かした失態に嫌気がさし、思わず舌打ちしてしまった。
それが更に事態を悪化させて行く…
「あ…………」
自分に向けての苛立ちと取ったのだろう、桃香の目が大きく見開かれた。
「申し訳け…ございません……」
違う!
何に謝る必要があると言うのか。
桃香に落ち度など無いではないか。
「要らぬ子で御座いましたか…」
涙の粒がみるみる内に膨れ上がり、慌てて顔を背けようとする桃香を、次の瞬間ネジは力一杯掻き抱いていた。
「馬鹿を言うな!!」
「……っ…うぅ…」
思わず発した叱責の声を又もや勘違いし、堪えきれず漏らす桃香の嗚咽がネジの耳に切なく響く。
「っ…くそっ!」
「もっ…申し訳…ございません…」
あぁ!だから!違うのだ!
ネジは自分の難解な性格を呪った。
日頃の気難しい振る舞いのせいで、咄嗟の一言がますます誤解を招くのだから。
この状況を何とかしなければいけない。
今の桃香に不安や苛立ちは禁物だ。
「桃香、すまない。違うのだ。」
必死の思いで気持ちを落ち着かせ、悲しげに泣く桃香の身体を優しく揺すぶった。
まるで子供を慰めるかのように、優しく優しく…
「…要らぬ子であるわけが無い。愛した女を身籠らせる…男にとってこれ以上の喜びは無いだろう。」
耳元で囁く。
いつもの自分なら赤面を禁じ得ないであろう、甘い、甘い声で……
「有り難う、桃香。」
それは心の底からの感謝の言葉だった。
「愛している。此からはもっと大切にしなければな。お前は俺の子を産んでくれる唯一の女なのだから」
震える背を撫で、尚も嗚咽する桃香のこめかみに優しく口付けた。
「ネジ様……うぅ…っ…」
それを合図に、桃香は更に激しく嗚咽した。
今まで見たこともないほど肩を振るわせ泣きじゃくる。
「おい…どうした?何故泣く…」
慰めるつもりで言った言葉が仇になったのか……
ネジは戸惑った。
「桃香、もう泣くな……」
弱りきって、胸にしがみつく桃香の身体をゆっくりと離し、涙に濡れる顔を覗き込む。
「……どうした、また腹が痛むのか?」
余りにも泣くので心配になり、気が付くと桃香の下腹へ手のひらを当てていた。
気のせいか何時もよりも温かに感じるその感触に、不思議な感覚を覚える。
まだ何の変化もない平らかなそこに、自分の子が息づいているのだ。
日向の中である意味虐げられ、犠牲になるためだけに生きて来たと思っていた自分が、新たな命を遺す……
色んな意味で感慨深くもあり、一層自分の中に強い力が湧いてくる気がした。
何としてもこの命を護らなければ…
「医者を呼ぶか?…それより瑠璃を…」
「いいえ…大丈夫でございます。どこも痛くはありませんから…」
いつになく慌てるネジが気の毒で、桃香は指先で涙を拭った。
「余りにも勿体無いお言葉…これは感涙にございます…」
半泣きの表情になりながら、心配そうに下腹を擦るネジの手に手を重ねた。
数々の任務をこなしてきた手練れの手とは思えないほどのしなやかなこの手が、桃香は大好きだった。
いや、手と言わずネジの全てが愛おしく、何よりも尊敬していた。
その人の子を成すことが出来るなんて、身に余る光栄。
幼少期に悲惨な経験をし、存在意義すら見出だせず生きてきた自分が、こうして次代に命を継いでいく事が出来るとは…
「ネジ様…、私の方こそ御礼を言わなければなりません。ネジ様の子を身籠ることが出来て幸せにございます。本当に有り難う御座います…」
「桃香…」
見詰め合い、自然に唇が重なりあう。
互いに愛し合う夫婦の親密な時間がゆっくりと流れた。
振り払ってはまた追いかけてくる闇の彼方には、必ず幸福の光が待っていてくれる…
ネジの温かな胸に頬を埋めた桃香の脳裏に、そんな思いが広がった。
その時はまだ知らなかったのだ。
密かに忍び寄る、哀しくも憎しみに満ちた禍々しい手が、桃香を再び闇の中に絡め取ろうとしていることを……
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