迂回のお話
大学が春休みに入った。来年から就職活動が始まるとあってキャンパス内は各々どたばたしている中、俺はふらっと帰省することにした。
高速バスで2時間。実家は隣県なので一眠りしているうちに到着する。
頻繁に帰ってくる息子に母は「また連絡もせんで帰ってきてから!ごはんは食べてきたとね?」と小突く。
父からは「はよ帰ってPRでん書け」と軽いジャブをくらう。
「傷心旅行たい」
疲れたように肩を落とす俺の荷物を気のきく弟が部屋まで運んでくれた。こっそり「兄ちゃんどうしたと」と尋ねるのも忘れずに。「彼女に振られた」なんて兄としての威厳に関わると、こんなときばかりよく分からない精神論を取り出して当たり障りない返事をしておく。
常々母に片付けるように言われていた本棚に手をつける。むしゃくしゃするから高校時代に買った本や途中で集めるのを止めたまんがを売っ払ってしまおうと漁り始める。
2段目に入ったところで思わず声をあげた。
「懐かしい」
確かに見覚えのあるそれは、あいつに借りたものだ。パラパラとページを捲る。同時にあいつに関する記憶が溢れ出す。
高校に入学して、期待と不安で半分こになっていた俺、それとあいつ。なんとなく仲良くなって家にも行き来して、それだけじゃなくて。認めたくないことだが、俺はあいつに恋心を抱いた。きっと俺に友情を抱いていたであろうあいつに恋心を抱いた。自分が性的なマイノリティだと気づかされたあの時のショックは忘れようにも忘れられない。頭の中のあいつで汚したパンツを洗った時のやるせなさは如何とも言い難い。未だに素直に「懐かしい」と笑うことのできない生傷。
最近まで彼女であった人に「あなたはいつも心ここに在らずなんだね」と泣かれた理由を今更ながらに痛感する。
今も俺は過去の片想いに囚われたまま。
飴色になりかかった青春の一部分をぱたんと音がするくらいに閉じれば細かい埃に喉をやられた。借りたままなのはいかん、と心中呟いて携帯電話の電話帳から今はめったなことじゃ呼び出さない番号を押した。
呼び出し音を聞きながら親友と呼べるくらいの『友達』であった彼を思うと心臓が口から出そうなくらいどきどきした。
全く変な話だ。親友に久しぶりに電話をかけるだけ。ただそれだけのことなのに。たぶん10回目くらい、流石にしつこいかと焦って電源ボタンに指をかけかけたとき、あの声が鼓膜を打った。
『もしもーし』
「…俺、久しぶり」
多分、普通に聞こえている、はず。
『俺俺詐欺ですかぁ』
他の男のくすくす笑いは寒気がするが、こいつのは聞いていて気持ち良い。
「そうですー。今回の手口はまんが借りパク詐欺ですよー。」
『え、嘘!なんか貸しとったっけ?』
「えぇ1冊だけですが」
『まじかー!返せよ、忘れとったけど』
「今からいい?」
今は午後8時。
『おー、いいばい!今日親おらん』
なんだ、お前は俺の彼女かと言いたくなって拳を握りしめた。親いないだなんて、誘ってるの?
「んじゃ20分くらいしたら行くけん」
『了解』
何気ない会話を情けないことに俺は心臓どきどきかつ顔は真っ赤でなんとか終えた。実際会うの大丈夫かなぁと一瞬心配したが、大丈夫、ポーカーフェイスは得意と気合いを入れた。
鍵を失敬してまんが1冊と車に乗り込んだ。リビングからはバラエティー番組に笑う家族の声がした。1ヶ月に1度は帰ってくる息子とは言え、TVから目を離さないままいってらっしゃいを言うのはどうかと思う。と言うか寂しい。まぁ愛情が薄いわけじゃないから良いんだけど。
ここはちょっと田舎だからさほど混んではいない。あっという間に到着。
一軒家の片隅にある駐車場に車を置かせてもらう。母子家庭であるあいつの「今日親いない」は母親はいないの意味である。きっと大学病院の看護婦長を勤める彼女は今日も夜勤なのだろう。
玄関の呼び鈴を鳴らす前にドアは俺を迎え入れた。
「なんだよ、借りパク詐欺って。訳分かんねぇ」
にや、と口の端を吊り上げた親友は何にも変わらない。俺が恋したままの姿だった。
「永らくありがとうございましたー」
差し出したまんがを受け取りながら「うっわ!めっちゃ年季はいとっる!」と、はしゃぐ姿を目を細めて見た。懐かしい馴染みの家の誰にともなくお邪魔しますを言って上がり込んだ。広いリビングは模様替えがしてあるものの青春時代が凍りついたまま保存されたよう。
はい、と差し出されたスミノフに口を付けてソファーを半分俺で占めた。当たり前に残り半分にのっかる彼に弾力のある椅子はふわりと沈んだ。
積もる話は弾む。
弾んでいるが、俺は集中できてない。
スミノフばかりが減る。
「聞いとる?」
彼の指を舐めるように見ていたら、急に意識を引き戻された。
「ごめん、何?」
「だー!もうおまえ上の空すぎ!」
呆れたようにどつかれればソファーの広い手摺に呆気なく転がる。
押し倒されたみたいな形。
目をまん丸くして引っ張りあげられた。
あ、スミノフは無事。
「ほんとどうしたん」
「ぼーっとしとった。で、何?」
「だけんおまえ就職どうすっと、て。彼女の地元で探しとったろ?」
「あーそれね」
そういえば去年そんなこと言ったかも。でも半ば彼女に引き摺られてそういう流れになってたわけで、俺の意思ではなかった。狡い言い方だけど。
「彼女とはねー…、別れました」
「うそ?」
また吃驚させてしまった。何か言うべきことを考え込んでしまった。
「それで帰ってきたん?」
「まぁ、半分は、それ」
なんとなく手持ちぶさたになって伸びをした。彼も真似をする。
時計はもう11時。
昔だったらもうお暇するところ。母親からも「はよ帰ってこい」のメールなり電話なりがある時間。
酒は呑むタバコは吸う選挙だって行く。車をぶんぶん走らせ、将来の見えた彼女の話もする。
ああ俺らは取り返しが付かないくらい年を経た。
「なぁなんで別れたん」
言いにくそうにおずおず聞いてきた。
「愛想つかされた。『貴方は私を幸せにしてくれない気がする』って」
ちょっと口調も似せてみた。
「なにそれ、うまくいってるふうだったのに」
「表面だけな。あと『心ここに在らず』だってさー」
こいつには言える気がして喋ってしまう、色々。
「何かに心奪われてた?」
「と言うか、捕われてた」
文学チック?
でも捕われてたが正しい。何年捕われれば気がすむんだ、俺。
「何に捕われてた?」
「それは言えないかも」
流石に言えない。
おまえに、なんて、ドン引きするだろ?
叶わない恋を吐き出したい気持ちより、確実な友情を失いたくない気持ちが勝る。
このままでいい。
伝わらなくていい。
伝わってしまったら何もかも失う気がする。
蓋をしよう。
「俺に言えんことあるとか、めっちゃむかつく」
唇を尖らせる彼。
キスしたい。
いや、だめだめだめ。
「言えよー言っちゃえよー言ったら楽になるぞー」
肩をツンツンしながらせっついてくる。
「言わんて」
ちょっとむすっとして断ると、傷ついたような顔をした。
つついていた指を引っ込めて柔らかなソファーに座り直す。海を揺られるように波打った。
スミノフはもうない。
今度こそ完璧に手持ちぶさたになってしまった。
とにかく黙ったままいじけた彼を宥めて、この変な空気をどうにかしたい。
本当にこいつは俺の彼女的ポジションなんじゃないかと突っ込みたくなる。
が、嫌じゃない。うざくない。惚れた弱み。
「ごめんて、やっぱ俺も男だか、ら…、って、え?泣いとると?」
「泣いとらん!」
いやいやいや泣いてるじゃん。まだ未遂だけど、目にいっぱい涙溜まってるし。
「そんなショックなん?てか、ごめん、泣くなって」
「おまえが言わんなら泣いてやる」
「それは困る」
何で泣くんだ、泣かれたら困る、泣いて欲しくない。泣かせたくない、好きだから。
でも、言ったらどうなる?
おまえはそれでも俺と居てくれるのか、せめて友達でいられるのか、それが問題。
ちょっと気になる女の子だったりしたら勢いで告白できるのに、ちょっとどころじゃなく気になる男の子にそんなこと出来るのか。
ましてこんなに大切な人に。
そう、つまり俺が傷つきたくない。
けど色々考えていたのと同時に、彼が傷つくくらいなら俺が傷つきたい、と願ってしまったのには困ってしまった。
(俺、今から、全てを失います。)
そんなふうに決意は固まった。
青ざめた表情を見せないように、一つ深呼吸をして、溜まりに溜まった思いを吐き出す。
小さく。
「おまえが、離してくれない」
たぶん何かが痛そうに顔を歪めてしまっているに違いない。
彼はまたびっくりしたみたいに目を丸くしている。拍子にその大きな目から雫が零れた。
あ、ちゃんと言ったのに泣いちゃった…。
嘘つき。
「なん、て…?」
掠れたような声が俺に続きを促した。
「だけん、おまえが好きつたい」
痛い、胸が痛い。
拒絶される前に、帰ろう。
そう思って力の入らない足で立ち上がった。
「まって!」
勢いよく引っ張られてソファーの海へ顔から落っこちる。しかも運の悪いことに下には彼の膝があった。
痛い、物理的に痛い。
「ばか、もう…おまえのせいだけん。もう俺力はいんねー」
情けないことに震えてる、俺。
緊張してるし、顔赤いし、なんか涙まででそう。最悪。
色々どうでもよくなって、このまま彼の膝を堪能してやれと、動かずに目を瞑る。
すると予想外に優しい手のひらが頭の上に降ってきた。
「なぁおまえいつから俺のこと好きなん?」
「うんと…出会って暫くして…です。てか、気持ち悪いとか言えよ、あほ」
恥ずかしくて悲しくて情けなくて怖くて消えてしまいたくて今の状況が理解できなくて、俺はただただ混乱していた。頭を撫でる温かい手のひらの意味が分からなかった。
「俺のが気持ち悪いし。女々しく泣くわしつこいわ」
「全然、気持ち悪くない」
「そう?」
「そう」
あのさ、と彼に呼び掛けられた。
告白の返事をするんだろうと思って出来れば聞こえないように耳を塞ぎたかった。顔を上げることすら叶わず、彼の膝から離れることも叶わずにじっとしているしかなかった。
「俺、おまえに嫌われたと思った…」
「嫌っとらん」
「うん、だけん、嬉しかった」
どういう意味なんだろう。まだ『友達』でいてくれるということなのか。
怖いけど、確認したくてようやく顔を上げる決心ができた。
恐る恐る沈むソファーに手をついて見上げると、彼が微笑んでいた。
「よかった、友達やめられるかと思った…」
息も絶え絶えにそれだけ呟いて元の位置に倒れ込んだ。
「友達でいいん?」
妙に穏やかな声。
「え?」
何が言いたいんだ?
気になって、再び視線を戻した。
あれ?顔真っ赤…
目があって、何かを感じた。ぷい、と逸らされる目線は斜め下。震えてる。
「おまえより、ずっと前からおまえのこと好きだった…って言ったらどうする?」
「…え?」
なに?なになになに!?
「なんて…?」
彼がさっき俺に突き付けた疑問符をそのまま返した。
「だけん、おまえが好きつたい…!」
赤く濡れた唇がさっき俺が押し付けた告白を震えながら投げ返してきた。ぶわっと立つ鳥肌。
俺は堪えきれなくなって彼に抱きついた。
胸が詰まって喋れない。
苦しい呼吸で押し出すように「好きだ!」と叫んだ。変な顔になっていそうなのにも構わずに。
彼は喉で小さく音を立てて肩口にぐしゃぐしゃの顔を埋めてきた。涙と鼻水がお気に入りの服にべったり付いた。もう、絶対この服洗いたくない。
その言葉しか知らないみたいに「好き」を搾り出しながら唇を合わせたら歯がぶつかって痛かった。痛みさえおまえがくれるなら幸せだよ、とか気持ち悪いことを考えながら荒くて熱い呼吸を絡ませあった。
こんなに熱い体温は初めてで心が溶けそうで、脳も溶けそうで、死んでもいいと思った。死にたくないけど、死んだっていいくらい好きだって落ち着いて喋れるようになったら言いたい。
夢じゃないと確かめるように、ほんの少しだけ体を離してぐしゃぐしゃの顔を見せ合った。
とんでもなく綺麗だ。
時間は何もかもを変えてしまう。
本は飴色になり、人は出会い別れ、あるものは減り、あるものは増え。
命は生まれ、死に、物事は始まり、終わる。
そして少年は青年に変わり、恋は愛なる。
「遠回りしたな」
笑い出しそうな恋人の白い歯に、俺はまた愛情をぶつけてやった。
この愛が早く成長していけばいいのに、と願いながら。
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