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8.


ガキの頃から傍に居たから。
俺を知っていたから、戯れにその手を伸ばした。
ちょっと構ってみただけなんだろ。
だって松本は大人で、誰もが望む美しい女で。
そんな女がこんな暴挙に打って出るなど、戯れか自棄になったかの、そのどちらかだろうと思われたから。
(それにあいつの中には市丸がいる)
先ずその前提が在ったから、尚のことあれは戯れでしかなかったのだと決め付けた。
愛せはしない。
愛はない。
俺がお前を愛することはない。
ずっと…ずっと口にし続けて。
だから、いずれは離れてゆくとわかっていた女であった。
――それなのに。
いざ本当に離れて行かれて、安堵したのは一時のこと。
触れることも、触れられることもなくなった、今やただの上司と部下の関係に戻った松本の肌に、真新しい鬱血の跡を見て止めて、必要以上に動揺をした。
打ちのめされたような気がした。
(嘘…だろ…?)
松本、は。
気付いているのか、いないのか。
否、恐らく気付いてなんていないのだろう。
髪に隠れる首筋の、それも襟足辺りに残されたそれは、合わせ鏡でも使わなければ、到底目に付く跡じゃない。
即ち松本が気付かぬ内に、跡を残した?
それほどまでに気を許した相手であろうことが窺えて、ショックを受ける以上に腸が煮え繰り返るような苛立ちに見舞われたのだ。
それこそ、愛してなんていなかった癖に。
愛を与えることもしなかった。
心を許すこともしなかった癖に、いつしかあいつは『自分の女』なのだと錯覚していた。
驕っていたことを今になって思い知る。
既に俺の手を離れ、肌を合わせることもなくなっていた女なのだ。
とあらば、他に男が出来たところで不思議はない。
元々美しい女なのだ。
俺には過ぎた女である、と。
わかっていた筈なのに、何を今更…。
よもや他に男を作るわけがないなどと、思い上がっていたと言うことか。
(バカか、俺は)
今も昔も松本の元には、縁談も手紙も降るように持ちこまれている。
あれを望む男は引きも切らず、瀞霊廷の男共の高嶺の花であると云うのに。
俺と云う男に見切りを付けた今松本が、誰の手を取ろうとも自由である、と。
忘れて俺は何を思い上がっていたのだろうか。
――そうだ。
俺は知らない。何も知らない。
松本が今、仕事上がりに誰と飲んでいるのかを。
俺の手を離れ、誰と過ごし、いつ自身の部屋へと戻っているのかを知らない。
これまで、気にも留めたことはなかったから…。
当たり前だ。
当然だ。
俺以外の男の手を取る日が来るなんて、露ほども考えてなんていなかったから。
…そんなわけがねえのに。
そんな筈はなかったのに。
虚を衝かれた先では松本が、「どうかしました、隊長?」と、きょとんとした目で俺を見つめている。
小首を傾げる様はいつも通りで、何ら変わった節は見受けられない。
無論、新たに男が出来たとも聞いちゃあいない。
否、俺なんぞにわざわざ明かす必要だってないのだから、やはり俺が知らなくとも当然のことなのだろう。
そう思われていることに、また少なくはない胸の痛みを憶える。
それにまた戸惑いを憶えるのだから、松本が訝ったのも道理だろう。
「たいちょ、大変。霊圧が酷く乱れているようですよ?」
案じるような眼差し。
つと近付いて見上げられて。
――手を。
そっと頬へと添えられた。
ただそれだけで、脈打つ心臓。
動揺を、察せられるのを恐れて思わず振り払ってしまった腕。
大きく瞠った空色の瞳が、どこか寂しげに目を伏せたのを、ほんの一瞬見て止めて、誤解させたことを知る。
「――ごめんなさい、たいちょ」
またあたし、出過ぎた真似をしちゃいましたね。
なんて、笑うな。
ンな無理やりに。
そうじゃねえんだ。違うんだ。
何も今触れられたことを厭うているわけじゃねえんだ。
なのに喉はべったり張り付いたように、まるで言い訳は言葉にならない。
何を伝えて良いかもわからない。
何しろこんな事態は初めてで。
だから酷く戸惑っていた。動揺をした。
踵を返して離れて行った、女の背中をただ呆然と、見送ることしか出来なかったのだ。








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