[携帯モード] [URL送信]
5.



昼時にはまだ少し早い時間のせいか、生憎辿り着いた店先のドアには『準備中』の札が掛けられていて、どうしたものかと一瞬俺は戸惑った。
窓にはカーテンが引かれていて、中の様子を窺うことは出来そうもない。
だが恐らく、この時間であれば開店準備か何かで誰かしらひとはいるだろうと思われた。
それが松本であれば幸いだが、そうでなくとも今日の出勤の有無ぐらいは教えてもらえるのではないかと思ってドアノブに触れる。
どうやら鍵は掛けられていなかったらしく、カチリと鈍い音がして、存外簡単に扉は開いた。
まだ薄暗いままの店内に、チリンチリンと軽やかに鳴り響くベルの音。
それに気付いて奥の厨房からひょっこり顔を覗かせたのは、薄っすらと髭を蓄えた、やたら愛想の良さそうな惚けた風貌のオッサンだった。
背は高く、長く伸ばした黒髪を後ろでひとつに束ねている。
店内に一人佇む俺の姿を見咎めて、ほんの少しだけ驚いたように目を丸くした。

「ああっと、お客さん…かな?見ての通り、生憎まだ開店準備中なんだけど。表のプレートに気付かなかったかい?」

愛想がいいのか、はたまた調子がいいだけなのか。
まだ開店準備中であるにも関わらず店の中へと勝手に入り込んだ俺への警戒心すら見せることなくやたら砕けた調子で声を掛けられて、呆気に取られること暫し。
だがその口振りからこの男がこの店の主人だろうと窺えた。
言葉に窮し、それとなく店内を見渡してみるも、他に従業員らしき人間もいない。
無論、松本の姿もない。
単に時間が早過ぎたせいか、それとも今日は休みなのか。
…よもや昨日の今日で辞めたってことはねえよな、と。
思って更に募る焦り。
何しろ一度は裏切られた身だ。
それも黙って店を辞め、そのまま姿をくらますという、ある意味手酷い手段で以って。
ゆえに、懸念を抱かなかったと言ったら嘘になる。
あの時の二の舞だけは御免だと思った。
だから昨日の今日でこんなところまで押し掛けたのだ。
「ん〜、バイト希望…って感じじゃないよねえ?」
不躾なほどにまじまじと顔を眺められて、少しだけ居心地が悪くなる。
「…すんません」
謝って、どう切り出すべきかを一瞬迷う。
松本、と。
呼びなれた名前を口にしかけて、だが既に苗字が変わっている可能性が残されていることに気付いてまた躊躇う。
躊躇う俺を、然して不審に思う素振りも無く、目の前のオッサンは黙ってじっと眺めている。
(というよりむしろ、観察されていると言った方が正しい気がした)
これはやはり…怪しまれていると云うことだろうか?
幾らなんでも話を聞きだす前に追い出されては敵わないと思って俺は、漸く重い口を開いた。
「その、…ここに『乱菊』って名前の女が働いてると思うんスけど、」
やっとの思いで口にしたのは、それこそ呼んで久しい女の名前で。
その何とも言えない気恥ずかしさに、思わず背筋がむず痒くなる。
だが、そんなむず痒さもたちまちの内に吹っ飛んだ。
そのオッサンのひと言によって。
「ああ、乱菊ちゃん?うん、まあ…確かにうちで働いてたけど、彼女に何か用事でも?」
「……は?」
昨日ここで働いているのを見た以上、よもや否定されることはないだろうと思っていた。
だから肯定されて当然だろうとも思う。
だが、思いがけずに晒した間抜け面。
一瞬耳を疑ったのは、そのオッサンの肯定が明らかに『過去形』だったからに他ならない。
(働いて、いた…?)
「っちょ、ちょっと待ってくれ!働いてた…って!」
「うん?辞めたよ、乱菊ちゃんなら。昨日付けで」
極、あっさりと。
店を辞めたと告げられ言葉を失う。
それも。
「昨日…」
「そ。仕事上がりにいきなり今日で辞めたいって切り出されて、そりゃあもう驚いたのなんの…。そんな素振り、これまで一度だって見せたことなんてなかったからね。なのに、理由を聞いてもとにかく『すみません』の一点張りでさあ…」
オッサンの言葉を遠くに聞きながら、俄かに暗くなる眼前。
よもやと懸念していたことが、寸分違わぬ『現実』となったのだから当然だ。
それまでそんな素振りも見せずに働いていたと云う松本が、突如店を辞めると切り出したと云うことは、その原因はやはり『俺』にあると云うことなのか?
俺が…この店を訪れたから?
ここで顔を合わせたから?
…だから、なのか?
(つーか、痛てえ)
キリリと胸が、締め付けられるような痛みを放つ。
なんだよ。
そうまでして俺に会いたくねえのかよ。
俺と顔を合わせる『可能性』全てを断ち切りてえってことなのかよ。
あからさまに避けられている――それが酷く胸に痛い。
と、同時に何故そこまで?と。
当然の如く湧く疑問。
苛立ちに思わず舌打ちが漏れる。
そんな俺へと目を凝らし、食い入るように見つめる奇異な視線。
気付いて思わず目を逸らす。
ともかくこれで、松本と話をする機会は再び断たれたも同然。
これじゃああの時の二の舞じゃねえかと思って歯噛みをするも、今更どうすることも出来ない。
苛立ちと焦燥とに言葉を失くした俺を、凝視するようにまた一瞥してからオッサンは、まあ座りなさいよと徐に俺へと椅子を勧めた。


それから店内に設置された冷蔵ショーケースの中からペリエを二本取り出すと、一本を俺へと放って寄越し、自身も傍らの椅子を引いて腰を下ろした。
そうして手にした(恐らく売り物であろう)ペリエの蓋を捻り開けると、ぐびりと呷って溜息を漏らす。
「まあ、おかげで僕としても今、ほとほと困ってるとこなんだよねえ」
ちょっと君さあ、時間あるなら愚痴聞いてくれる?と、いきなりのように切り出されてますます当惑したものの、この店の商品まで押し付けられて今更「嫌です」と言い出せるような雰囲気でもない。
況してや松本が店を辞めたと言う今、あの女のことを知る手掛かりを持っているのはこのオッサンただ一人だけなのだ。
何とかして連絡先を…居場所を聞き出さなくてはならない。
会ってもう一度、話をする為に。
何故そうも悉く俺を避けるのか…身を隠そうとするのかを、聞き出さなくてはならないのだ。あの女から。
そうでなくては忘れられない。
多分…踏ん切りがつけられない。
そう思って勧められるがままに椅子へと腰を下ろした。下ろしたのだが…。
「てか、店…開けなくてもいいんスか?」
時刻は間もなく11時を廻る。
仮にもレストランなのだから、そろそろ『ランチタイム』の時間なのではなかろうか?
なのに店の照明は落としたまま。
このオッサンからも、店を開ける気ひとつ見られない。
他人事ではあるのだが、さすがに気にならない筈もない。
だが当のオッサンは何とも暢気なものだった。
「ん〜…、乱菊ちゃんも辞めちゃったし、代わりに昼のシフトに入れる子もいないし。かと言って、どう考えても厨房とホールをランチタイムに僕一人で廻せる自信もないからねえ。今日はもういっそ昼は『臨時休業』でもいいかな〜って…」
「…はァ」
オッサンは、あーあと重たい溜息を吐いて、再びぐびりとペリエを呷る。
呷って再び溜息を吐く。
オイオイ、いいのかそれで?と内心突っ込みを入れながら、俺も「イタダキマス」と口にして、きゅこりと手にしたペリエを開ける。
ひと口呷って喉を潤す。
だが、そんなオッサンの暢気な態度にうっかり気を緩めたのが間違いだった。





[*前へ][次へ#]

6/69ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!