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2.


けれどあれが、恋情ゆえの交わりであったかどうかは今以って良くはわからない。
「もしかしたら。離れてゆくあたしを引き留めたいだけの我がままだったのかしらね」
その頃あたしも二十一と、年も年だったからか、縁談を持ち掛けられていた。
隣町にある大きな青物屋で働くそのひとは、あたしより十も年上で、早くに女房を亡くし、男手ひとつで子どもを育てているとのことだったけど。
仕事振りも大層真面目で、周囲からの評判も上々だったこともあり、後添えになるのも悪くない…そんな風に思っていた。
けれどあたしに縁談が持ち掛けられたことをどこからか聞いて知ったあのひとは、寄りにも寄って見合いを翌日に控えた夜に、好きだのひと言であたしを手折った。
嫁になんて行かせるものかと、酷く苦しげに告げたのだった。
おかげで、翌日の見合いの席では散々で。
一度は後添えになってもいいかと思ったことが嘘のように、嫁ぐ気力は失せてしまった。
あのひとの元に縫い付けられた。
甘い言葉と夜毎の情交に溺れ、自ら女中としてあのひとの傍にとどまることを選んだのだった。
――バカな女。
所詮一介の女中の分際で、六つも年下の大店の若旦那なんぞと、一緒になれる筈もないとわかりきっていたことなのに。
それゆえあのひとは、同じ大店のお嬢さんと所帯を持つ。
やがてはふたりでこの見世を切り盛りしていくことになるのだ。
無論、そこにあたしの居場所なんてある筈もない。
否、これまで通りの『女中』としてなら、幾らも居場所はあるのだろう。
若しくは身体を提供するだけの『妾』に成り下がることなら可能であろう。
但し、その扱いは目に見えて変わるだろうことは火を見るよりも明らかだった。
そもそも迎え入れるのは、あたしよりも幾許も年若い娘なのだ。
とあらば抱き古した年嵩の女など、程なく抱くに値しなくなるに違いない。
それ以前に、夫婦揃って離れに所帯を構えるとすれば、肌を合わせる場所すら無くなるも同然。
(つまり、どちらにしろおしまいってことじゃない)
例えば外にあたしを囲うとか、湯屋の帰りに示し合わせて束の間情を交わすことなら幾らも可能だろう。
でも、どう考えても現実的じゃあないわ。
果たしてそこまでしてあのひとが、あたしを繋ぎ止めて置きたいと、望んでくれるかどうかもわからないのだ。
だからやっぱり潔く、身を引くよりも他はない。
…あの時お嫁に行っていれば良かった、なんて。
(今更よねえ?)
あの時あたしが袖にした男も、程なく新たに後添えを迎えたと風の便りに聞いている。
今、あたしはあの頃よりもふたつ年を重ねた。
世間ではとっくに行き遅れ、中年増と呼ばれる年になる。
花の盛りはとっくに過ぎて、きっとこの先良縁は望めまい。
「あーあ。あたしもバカなことしちゃったわよねえ」
「…乱菊さん?」
訝るように呼び掛けて来た七緒に、何でもないと首を横に振って、吹っ切るように息を吐く。
「大丈夫。ちゃんとおしまいにするわ」
そもそもあたしが切り出さなくたって、いずれあのひとの方からそれとなく、清算を仄めかされるに違いない。
けれども、それを待っていてはだめなのだ。
別れを切り出される日を待って、このままずるずるとあのひとに、身を任せていていい筈もない。
(ちゃんと終わりにしなくっちゃ)
それから改めて考えよう。
このままここに残るのか。
妻を迎えたあのひとの傍で、この先もずっとお仕えするのか。
それとも新天地を求めてここをお暇するか。
ううん、意趣返しのように、このまま傍にとどまり続けるのも案外悪くはないかもしれない。
きっとあのひとは幾分極まり悪くあるだろうから。
…でも、それじゃあきっとあたしの心が持ちそうもない。
だからやっぱりどこかへ行こうか。
違う仕事を他所に見つけて、尻尾を巻いて逃げてしまおうか。
それとも誰か…こんなあたしでもいいと云うひとを見つけて、当てつけのようにお嫁に行ってしまおうか。
まだ、先は見えない。
決心だってついてない。
それでも最早、一歩踏み出さなくてはならないのだな、と。
湯屋へと向かう道すがら、涙がひと粒こぼれて頬に筋を描いた。










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あきゅろす。
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