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2.


…しまった、と。
思う間もなく男がゆっくり離れてゆく。
ひとつ、深い溜息を吐く。
「まあ、お前ほどの女に間夫のひとりも居ない筈がねえか」
すっかりその気も失せたように、小さくごちる。
違う、と。
すぐさま否定が出来なかったのは、なら何故そうも身請けを拒むと再び問われたところで、誤魔化すことも出来なかったからに他ならない。
だから結局すべて明かしていた。
自分には、年季が明けたら一緒になる約束を言い交わした男が既に居ることを。
それゆえ誰にも身請けされるつもりはないことを。
問われるままに明かしながらも、その実心の中では悔いていた。
間夫の存在を明かした上に、せっかくの身請け話をも蹴ってしまったのだ。
となれば、上客をひとり逃すことになるかもしれない…と。
どこか気だるげに煙管吹かしつつ、あたしの話に耳を傾けていたその男は、ふうんと気の無い相槌をひとつ打つと、徐に灰吹きへと灰を落とす。
そうして再び翡翠の瞳であたしを見据えて言った。
「けど、なあ。そんな金もねえ、その日暮らしの職人なんぞと一緒になってどうなる?万が一にも食えなくなりゃあ、お前が岡場所辺りに身を落としてもう一度、女郎として稼ぐことになるのは目に見えてんだろ」
そうなりゃまた苦界へと逆戻りだ、と。
からかうように諭されて、カッと頭に血が上る。
思わずキッとねめつけた先。
それでも然して怯むことなく、男は尚も言葉を紡ぐ。
閨で常日頃耳にする、睦言からは程遠い、嘘偽りのない非道な言葉を。…現実を。


「年季が明ける残り数年、惚れた男を想いながらこうして毎晩違う男に身を委ねながら地獄を見るか。それとも俺に落籍されて、惚れた男の代わりに俺に抱かれて地獄を見るか。…なあ、お前はどっちがいい?」


どちらが良いかも何もない。
否、どちらも地獄と位置づけているのが、実にこの男らしいと自嘲さえ浮かぶ。
年季が明けるまで、残り数年…そのたった数年を我慢さえすれば、晴れて自由の身となれる。
諸手を挙げてあのひとと所帯を持つことが出来る。
けれどその数年の間に、『何』が起きるかはわからない。
所詮、女郎である身の上。
病気と妊娠は常に隣り合わせであったし、万が一にもそんなことにでもなれば、今以上に借金はかさむ。
下手をすれば死をも免れない。
また、いつ他の男から身請け話を持ちかけらぬともわからない。
仮にそうなったとして、少なくともこの男ほど好条件で請け出そうとする男がそうそういるとも思えなかった。
だから臆してしまった。男の言葉に。
(本当に、それでいいの?)
(この話を断ってもいいの?)
…わからない。
今となってはどうすればいいかわからない。
そんなあたしの戸惑いを、見透かしたように男はわらう。
「まあ、良く考えるんだな」
いつもであれば、朝まで床を共にする癖に。
閨の中、朝まであたしを離そうとはしない癖に。
今日に限って男は、そう言い残すとあっさり部屋を後にした。
こんなことは、男が客として登楼して以来、初めてのことだった。
それがまた酷く心に堪えたのは、今考えればこの時既に、男の『策』に嵌っていたからなのかもしれない。
あれほどまでに、好いた男と結ばれたいと思ったのに。
願っていたのに、途端に酷く不安になった。
言い知れぬ戸惑いに駆られたままに男を見送り、気付けば既に、ふた月余りの月日が経っていた。










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あきゅろす。
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