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1.


おしまいにする方法が見つからない。



こんなことなら最初から手を出すんじゃなかったわ、と思ったところで後の祭り。
今更どうにもなりゃしない。

好きだ・と言われて受け入れたのは、あたしの方。
笑って冗談にしてしまうことも出来たのに…。
触れたい・と言われて先に手を伸ばしたのも、あたしだった。
むしろ冗談にしてしまうことこそが正しかったのに…。

いつだって先に打ち明けるのはあの子が先。
穏やかな湖面に小石を投じて、ゆるりとした波紋を起こす。
だけど踏みにじるのはいつだってあたしの方。
引き返せないところまで小さなあの子の手を引いて、先へ先へと促して、更にその先へ進もうとするのはいつだってあたしの方だった。
そうして結局は後悔するのだ。
荒れ狂う水面をどうやって鎮めればいいのかがわからない。
最早帰り道すら見失って、今更どこにも行けやしない。
途方に暮れるあたしを他所に、あたしより七つも年下の子供は今、手にした本に視線を落としている。
間もなくテストが近いのだと云う年下の男が目下熱心に読み耽っているのは、あたしには到底理解不能な数学の参考書。
文字と数式、それから図形の羅列。
羅列。羅列。羅列。
ああ、見ているだけで吐き気がしそうよ。
そんなに大事なテストなら、自分の部屋へと戻って思う存分勉学に勤しみなさいよと言ってやりたいとこだけど、生憎この子にその気はないらしい。
わざわざあたしの部屋に教科書と参考書とを持ち込んで、あたしのベッドに腰掛け傍らにはあたしを侍らせて、小難しい数式を次から次へと頭の中に叩き込んでゆく。
伏せた睫毛。
縁のない眼鏡。
さらりと揺れる、銀色の髪。
綺麗な翡翠色をした目を持つこの子は、あたしの血の繋がらない『弟』だった。




*
*

それまで父一人・子一人の父子家庭に育ったあたしに新たな家族が出来たのは、およそ十五年前のことになる。
まだ一歳にも満たない赤ん坊の冬獅郎を連れた、のちに義理の母となる年若い女と、あたしの父とが再婚したのだった。
当然のことだけど、当時赤ん坊の冬獅郎はあたしと血が繋がっていないことなど知る由もなく。
「姉ちゃん、姉ちゃん」と。
幼いあの子は、あたしのことを大層慕ってくれたものだった。
だけど小さな頃から異様に頭の良かった冬獅郎は、意図も容易くあたし達家族の小さな『綻び』を見つけ出してしまったのだ。
針の穴ほどの綻びを更に大きく暴くかのように自ら戸籍を取り寄せて、自分と…あたし達父子との間に血の繋がりがないことを、当時十四歳のこの子は一瞬にして理解してしまったのだった。
だからと言うわけではないけれど。
唐突に突きつけられたその書類に、当然あたしは目を見張った。
「ああ、やっぱりお前は知ってたんだな」
驚くあたしを見上げるあの子は、だけどあたしの動揺を嘲笑うかのように落ち着いていた。
それがあたしにはまたわからない。
どうして、と。
問い質すことも出来なかった。

「簡単な話だ。いくらなんでもあの母さんが、十七でお前を産んだとは到底考えられねえからな」

取り寄せた戸籍片手に淡々と告げた冬獅郎は、だけど自分の知り得たこの事実を、今はまだ…両親に打ち明けるつもりはないのだと言った。
そればかりか、別にショックも受けていない、とも言った。
そうしてむしろ自分は俺達親子の間に血の繋がりがなかったことに安堵したのだ、とも言った。
それにまた驚かなかったと言ったら嘘になる。
「…なんで、ホッとなんてするのよ?」
訝しげに問うたあたしを、まっすぐに射抜く碧い瞳。
まるで「本当にわからないのか?」とばかりに問い質されているような気がして、居心地の悪さに思わずきまりが悪くなる。
(…ああ、そうよ)
もしや、と云う予感だけなら随分前から感じていたのだ。本当は。
だけど知らない振りをした。
気付いていない振りをしたのだ、あたしは。
それが更に目の前の『弟』を煽ることになるとわかっていながら…。
そしてそれが『正しかった』ことを、あたしはこの後この身を以って知ることとなる。


「ずっと昔から、お前のことが好きだったからだ」


躊躇うことなく、抑揚なく告げられた言葉。
その瞬間、ぐらりと世界は大きく歪んだ。…ような気がした。
「よもや知らなかったとは言わせねえ」
言って。
きゅうと掴まれた腕。
触れる指先に力が篭る。
痛いぐらいに…。
熱いほどに…。

(…ああ、そうよ)
今更言われるまでもなく、とっくに気付いていたに決まっている。
その目に宿る暗い光に。
不自然すぎる、その執着に。
気付かない筈がなかったのだ。
気付きながら、その実何も知らない振りをして、幾度となく繰り返してきた過剰なまでのスキンシップ。
愉快がって、わざと煽るような真似をしていたのはあたしだった。
だからこれは当然の結果と云っても差し支えない。

「お前が好きだ」

真っ直ぐ見据える眼差しに、知らず…コクリと喉は鳴る。
家の中には、今…あたし達二人だけ。
両親は未だ仕事から戻らない。
きっと今夜も遅くなるのだろう。
ぼんやりと頭の片隅に思い描いたその時のことだ。
一歩、あたしに向けて冬獅郎が足を踏み出したのは。

「…好きだ」

あ、と思う間もなく再び告げられていた。
真摯な言葉で。
あの眼差しで。
迷いが脳裏を過ぎったのは、ほんの刹那のことだった。
また、一歩。
冬獅郎が踏み出そうとしたその瞬間に、捕えていた。
まだ少しだけあたしより小柄なあの子のからだを。
臆して突き飛ばすのではなく、この腕の中に抱き留めていた。
冬獅郎、は。
まるでそうなることがわかっていたかのように口角を歪め、あたしに向けてその細い両腕をするりと伸ばすと、躊躇うことなくあたしを抱き締めた。




無論、正しいことだとは思わない。
それでもこの子に「好きだ」と真摯に告げられて、喜ばなかったと言ったら嘘になる。
そもそもが聡いこの子のことだ。
あたしがひっそりと抱き続けた『恋情』ぐらい、それこそ当の昔に見抜いていたことだろう。
むしろ撥ね付けられる筈がない、と。
ある種確信を得ていたからこそ、こうしてこの子はあたしに向けて手を伸ばしたに違いない。
そうしてあたしの腕に捕えられたあの子は、美しくも残忍な微笑みを浮かべ、徐にあたしのくちびるを塞いだのだった。
…無論、抗う理由などありはしない。

「お前のこと。もう…『姉さん』なんて呼べない」
「今更無理して呼ばなくていいわよ。てゆーか、ここ最近じゃああたしのこと、一度だって『姉さん』なんて呼んだことないじゃないのよ、アンタ」

交わすくちづけの合間に告げられて、思わず呆れたように詰ったなら。
「元から『姉ちゃん』なんて思ってねえし」と。
あたしへと抱くこの恋情が永きに亘り抱き続けた感情なのだと存外に打ち明けられて、脆くも理性は崩壊した。
と、同時に「もしかしたら」と過ぎる不安。
迂闊にも、不用意に発していたあたしの決して正しいとは呼べないこの『恋情』に、感受性の鋭いこの子が敏感にも反応をして引き摺られるように触発されてしまっただけではないのか?
あたしの抱いた不埒な恋情に、釣られるように道を踏み外してしまっただけではないのだろうか?
肉親へと抱く愛情を、異性へと抱く愛や恋と勘違いしているだけではないのだろうか?
そんな不安と後ろめたさが否応にも付きまとう。
(ああ、そうよ)
だってまだ本当は子供なんだもの。
いくら頭のいい子だからって、心はまだ子供なんだもの。
わかっているのに…理解しているのに、それでも尚先へ先へと先走ろうとするあの子の情動を押し留めることはできなくて…。
そればかりか、煽られるままに受け入れてしまう。
望まれるままに共に先へと導いてしまう。
共に溺れる『自分自身』が、何よりあたしは恐かったのだ。





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あきゅろす。
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