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5.


ゆっくり、と。
押し当てられて、離れてゆく。
ふっくらとした、あかいくちびる。

「例えお金が縁で繋がっただけの夫婦だろうと、妻となった以上、あたしは夫である貴方を生涯賭けて愛します」

告げる女の眼差しは、いっそ眩しいほどに清々しい。
この期に及んで愛しているとは言わない。
ただ、妻である以上夫たる俺を愛することが務めなのだと、はっきり口に出す女。
逆らうつもりもなければ、逃げ出すつもりもないのだ、と。
ただ、運命を受け入れる。
親の定めたレールに従おうとする。
己の心を殺してまでも、愛そうとする。
この俺のことを…ただ、懸命に。
そんな繋がりひとつで、この女の『心』までもを手に入れられるとは思わない。
この女が。
あの男のことを容易に忘れられるとも思わない。
だが、それでも。
妻としてこの俺の傍に…共に夫婦として寄り添って行くつもりなのだとこの女が言うのなら。
今はもう、それで充分だとも思っていた。
だからと云うわけではないが。

「…でも。そう云う冬獅郎さんこそ、他にもっと若いお嫁さん候補がたくさんいらしたでしょうに。こんな借金抱えた商家の娘にわざわざ婿入りなんてして、後悔なさってるんじゃあないですか?」

不意を衝くように発せられた、意趣返しにも良く似たその問い掛けは、俺にしてみれば余りにも急であり、また意外でもあった。
「…俺、か?」
「ええ。俺、です」
ほんの少しだけからかうように言葉尻をとらえた女に、「それこそあれだけのお金があったら、無理に入婿なんてしなくとも、一人で悠々自適に暮らせていたんじゃないんですか?」と。
尚も追い討ちを掛けられ言葉に詰まる。
…まあ、確かに。
幸いなことに親の遺した家もあれば金もあった。
仕事も見つけず暫くぶらぶら遊んでいたところで、当面食うに困ることもなかっただろう。
もし、親の跡を継ぎ本気で医者になる気があったのならば、父親のツテを使ってでも別に師を探すなりして一からやり直していれば良かったのだろう。
むしろそうするべきだった、と。
今頃両親揃って草葉の陰で泣いているのかもしれないけれど。
――だが、それでも。
「別段後悔なんてしてねえな」
あっさり否定の言葉を口にしたなら、良かった…と。
思いのほか安堵した女に伝えるかどうかを一瞬迷って、結局俺は口を噤んだ。
何もわざわざ明かすこともないだろうと思ったからだ。
(何ならいずれ伝えればいいだけのことだ)
それこそ、もうあと少しだけ、お互いの『心』の距離が近付いた時にでも…。
そう思って口を閉ざした。
…たった、一度。
町でひと目見かけただけの『傾城の美女』と名高い女の笑顔に心奪われて、思いがけず縁談の話を持ち掛けられた俺が、一も二も無くその話に飛びついた・など。
親の残した財産なんぞ、この女の為であるならば最初から全部くれてやってもいいと思っていたことなんて。
例え用済みになったところを身包み剥がされ無一文で追い出されたとしても、喉から手が出るほどに焦がれた女を一度はこの手に抱いたのだ。
今更恨み言ひとつ口に出す気はなかった、なんて。
(そんな情けねえ話、何も今ここで伝える必要もない)
そう思って、縋る女を胸に抱き、その白い背中へと腕を廻す。
突然のことに一瞬ビクリと強張る身体。
…まあ、これもいつものことではあるのだが。
だが、愛すると言った傍からこの反応はさすがにどうなんだ?
いい加減項垂れたくなるのも無理はない。
「俺に抱かれるのは、…やはり嫌か?」
少しばかりの不満も露に問うたなら、だが女は目を丸くすると慌てたように頭を振った。
「いや、じゃあ…ないです」
返す言葉に色はない。
むしろ素っ気無いぐらいでもある。
けれど、その声音から決して嫌悪は感じられない。
それに漸く俺も安堵したのだが。
「ただ…その、こういう行為になかなか慣れなくって。…ごめんなさい」
図らずも。
肩口に頭を預けたままに、つっかえつっかえ思いも寄らない『真意』を打ち明けられて、ほんの少しだけ呆気に取られた。
いや、ちょっと待て。
…慣れない、だと?
(てことは、なんだ?)
夜毎褥で苦悶を浮かべるあの顔も、きつく目を閉じ俺を視界の外へと追いやって行為に及ぶそのわけも、ただ単に俺との同衾に慣れていなかっただけだと言うのか、この女は?
俺に抱かれることを決して厭うていたわけではなくて、ただ…慣れない交わりに戸惑っていただけだと言うのか、この女は?
(嘘、だろう…?)
閨を共にするようになり、既にふた月余りが経つというのに…と。
今尚呆気に取られる俺を、窺うように見上げる瞳。

「…呆れてます?」
「いや、まあ…少し」

うっかり本音を漏らしたならば、泣きそうな顔で「ひどい」と小さく詰られた。
その様子からして、決して嘘偽りない言葉なのだろうとは思われる。
それに女は一糸纏わぬ姿であるにも関わらず、この俺の腕から逃れる気配すら見せない。
縋るように留まって、尚も俺へと身を任せている。
肩を抱く腕を…この俺を、決して厭う気配すら見せない。
それによくよく思い起こしてみれば、夜毎の閨でのつれない女の態度に業を煮やした俺が、どんなに無体を働いたとして。
ただの一度もこの女は、この腕の中から逃れようとはしなかったのだ。抗うこともなかったのだ。
…ただ、苦悶を浮かべて俺の背中へと腕を廻して縋り付き、強張るからだで応じる女。
(なるほど、そう云うわけだったのか)
思い至って呆気に取られると同時に俺は、漸く女の真意を垣間見たような気がした。
ああ、本当に。
愛そうとしていたのだ、このおんなは。
俺のことを…こんなにも、ずっと。いつだって。
真意に触れて、綻んでゆく。
頑なだった己の心が。
閉ざされた、狭い視野が開いてゆく。





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