[携帯モード] [URL送信]
4.


その当時、隣町に住んでいて尚その類稀なる美貌の噂と名前とは、まだガキの俺の耳まで入って来た。
そんな彼女を一度だけ…偶然にも町で見かけたことがある。
母親と思しき年配の女とお供数人に囲まれて、恐らく芝居見物か何か、物見遊山の帰りだったのだろう。
随分と陽気にはしゃいで、絶えず笑顔を振り撒いていたのだ。…その時は。
噂に違わぬその美しさに、その笑顔に。
一瞬にして目を奪われて、焦がれたことは言うまでも無い。
ガキの癖に、と。思わなかったわけでもない。
――ガキの俺には所詮、縁無い女。
そう思って、諦めると同時に目に焼きつけた。
その、笑顔を。
キラキラと光る、眩しい金糸を。
それが数年と経たない内に、両親の相次ぐ死と遺産と共に、転がり込んできたのだ。
あの日焦がれた、彼の女との縁談話が。
無論驚きはしたものの、絶好の好機と飛びつかなかった筈もない。
手に入るのだ、と。
あの時焦がれたあの女が。
この俺の妻になるのだと思ったら。
それも向こうでも乗り気であると言われたならば、喜び勇んで話に乗らない筈もない。
…だから、後悔はない。
残された遺産全てを持参金へとつぎ込んで、それでもこの女を得られたことを。
この女の元へと入夫したことも。
医者となる道を自ら閉ざしたことまでも。
この顛末を悔やむことなど何ひとつない。
(ただ、心までは得られなかったと言うだけのことだ)
だが、それだって仕方がない。
俺はまだ…子供で。医者崩れでしかない子供で。
この話にしたって、所詮持参金目当ての縁談でしかなくて。
…だから、仕方ない。
本来であれば妻を娶るには早過ぎる、俺自身は親の金以外何も持たないしがないガキでしかないのだから。
そんな子供を家の為にと夫に据えた憐れな女に、身体だけでなく『心』まで寄越せとどの口が言える?
そんな見るからにガキの俺の言葉を真っ向から否定して、子供ではないと俺に縋った女の白い肩に腕を回しかけて、ふと躊躇う。
躊躇った後手のひらは、暫し宙を彷徨ってから、再びだらりと身体の脇へと戻した。
今更自ら触れる気にはなれない。
この、白い肌に…この女に。
「持参金だけ手に入れて、後は体よく俺を追い出そうとは考えねえのか?アイツと一緒になりたくねえのか?」
そんな逡巡を誤魔化すように問い掛けたなら、何故か泣き出しそうに目を見張り、強い眼差しで見据えられた。
「思いません…よ、そんなこと。そもそもそんなことが出来るとも、許されるとも思ってません」
そして殊更静かに女は言った。
今にも泣き出しそうな声だった。
それにまた俺は虚を衝かれる。
「…まあ、今更俺を追い出そうにも、そっくりそのまま持参金を俺へと返せる筈もねえだろうしな」
渡した金は、およそ五百両。
どうせ既に、全て借金の返済にと宛がわれている筈だった。
果たしてそれが吉と出たのかまではわからないが、借金の返済も全て片付き、傾いていた商売も漸く立て直すことができたらしい。
ここ最近では、店の中にも徐々に活気が戻りつつあった。
だからと言って、持参金を耳を揃えて全額返せるまでに繁盛しているわけでもない。
そうなるまでには、もう後何年かは掛かるだろう。
ゆえに、例えもう用がないからと言って、おいそれと俺を追い出すことなど出来ない筈だ。
要は、今以って金で繋がった二人なのだと皮肉混じりに口にすれば、再び女は軽く俺を睨み上げた。
「父も、母も…店の者達もみんな、冬獅郎さんには感謝してます」
「だから追い出す筈がねえ、か?」
問うた俺に、頷く女。
「…ッハ!」
それこそ皮肉な話じゃねえか、と。
思わず鼻で笑っていた。
「じゃあ、お前はどうなんだ?」
誰も彼もが俺に感謝していて追い出すつもりなど微塵もないと言うのなら、それこそお前には不都合過ぎる話だろうが。
「そもそもそれじゃあ、この店の切り盛りを任されている手代の男と一緒になることも叶いやしねえ」
意地悪くそう嘯けば、今度こそ不愉快も露に歯噛みした女はその青い瞳から涙を一粒、ポロリと零した。
そうして拗ねたように頬をふくらめ、心外だとばかりに無言で俺を詰ったのだった。
その、涙に。
予想外の、その反応に。
僅かに怯んだ隙を衝かれていた。

「あたしは貴方の妻です」と。

涙混じりの掠れた声で、力強くも口にした言葉。
その眼光と気迫とに、思わず気圧されていた。





「冬獅郎さんが何を根拠に今尚あのひととのことを疑うのかは存じませんが、全て貴方に出会う前の話です。それも、あたしの一方的な恋慕だったんです。何も…何もなかったんです、本当に」


だから手代の男と通じたことなどないのだ、と。
暗に説かれて、「まあ…そうだろうな」と心の内だけで呟く。
ああ、そうだ。
確かに面白くねえとは思っちゃいるが、何も二人の密通までは疑ってなどいなかったのだ。端っから、俺は。
事実、初夜の折、女の身体がまっさらであったことを俺はこの目で確認しているのだから、疑うつもりなど毛頭ない。
初めて交わりあったその夜に、敷布に散った赤い染み。
拙いくちづけと脅えた瞳を見ていれば、この女が『男』を知らないことぐらいはすぐにわかる。
「だからあのひとは何も知らない。あたしの抱いてた気持ちも何も…知る筈がない。そもそもそんなあのひととこの先どうにかなるなんて、絶対にあり得ない話です」
そうして縋る。
再びこの腕に。
この胸に。
「それに、あのひとは…あたしのことなんて何とも思っちゃいませんよ」
薄い自嘲と共に口にする。
それが嘘か真かは、その表情からは読み取れそうもないけれど。
それでもおよそ自分に言い聞かせるように、女はその可能性全てを否定した。
「…では、アイツではなくこの俺を選ぶと言うのか、お前は?」
念押すように問い掛けた俺に、女はそっと頷いて。
「選ぶも何も…それがあたしの定めですから」
と、濡らした瞳もそのままに、ふっと艶やかに笑うと、自ら俺へとくちづけた。


…定め。


定めであると、女は言った。
借金に傾く商家に生まれた一人娘の、これが『定め』なのだと事も無げに女は言う。
親の意向に逆らうことなど出来る筈もなく、ただ…家の為に。店の為に。
好いた男のことすら諦めて、親の言いなりに結婚を受け入れるしかない女の定め。子の定め。
大商家と呼ばれる家に生れ落ちたその瞬間から全て決められていた定めなのだ、と。
悟りきったように女はわらう。受け入れる。





[*前へ][次へ#]

5/7ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!