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1.



好いた男がいるのか、と。
軽口に乗じて切り出した瞬間、サッと女の顔が曇った。
「ご冗談を」
にっこりと。
殊更笑顔を繕い否定したおんなは、再び手元の針へと視線を戻す。
解れた俺の着物の裾を直しているのだ。
そうして視線を針へと落としたまま、あたしはあなたの妻ですから、と。
事も無げに女は言った。
傍らで懸命に針を動かす女は、確かに俺がふた月ほど前、娶ったばかりの『妻』だった。
だが、所詮親の命じるままに、俺の妻となり夫婦になったに過ぎない。
ゆえに、俺達の間に当然の如く「愛」や「情」と呼ばれる感情がある筈もない。
…ただ、家の為。
商売の為。
金の為だけに一緒になった夫婦なのだ。
況してや女はまだ若く、その美しさゆえその名を知らぬものはいないとまで巷で称されている。
そんな魅力的な女を前に、町の男連中が色めき立たない筈もない。
そんな娘盛りの女に、想いを寄せる男がいたとしてもおかしくはない。
そんな男と女が恋仲になったとしても不思議はない。
だが女はそんな俺の言及を、尚も笑って否定する。
夫たる俺以外の男と通じたことも無ければ想いを交わしたこともないのだ、と。
まあ、よもやそんな不義をこの女がそう易々と認める筈もないだろうと思っていたから、「そうか」と折れた振りをして受け流す。
例え過去の話と言えども、一旦他の男と通じていたと認めてしまえば、離縁されても文句は言えない。
場合によっては…万が一、今も男と通じているようであれば、俺が奉行所に訴え出ないとも限らない。
そうなれば、男共々裁判に掛けられ女は死罪、男は獄門となるのだから当然と言えた。
どうせ易々と口を割る筈もないのだから、それ以上の追及はしない。
そもそも女は、俺との離縁など望んではいまい。
例え他所にどれほど心通わせた男がいたとして、この俺と別れることなど出来ない筈だ。
そう思って溜息を漏らす。
徐々に傾きつつあるこの家の商売を建て直すには、俺と…俺の持つ財産。
持参金が、どうしても必要であるに違いないのだから。



*
*


女は名を『乱菊』と言い、その類稀なる美貌ゆえに江戸市中に名を知られていた、大きな材木問屋を営む商家の一人娘だった。
当然入り婿の話は唸るほどあった。
だが、持参金の折り合いがつかず、なかなか縁談話は纏まらなかったと聞く。
強欲な女の両親は、入り婿の用意する持参金で傾く家の商いをなんとか建て直そうと躍起だったのだ。
そうしてその頃、立て続けに両親が亡くなり思いがけず身に余る財産と家とを手にした『俺』の元へと、仲介屋によりこの婿入り話が持ち掛けられた。
聞けば先方は大層乗り気なのだと言う。
(それもまた当然の話だろう)
何しろ亡くなった父は大名お抱えの医師である傍ら町医者としても名を馳せており、その収入はなかなかのものだったのだ。
また、そんな父の元で幼い頃から医術を学んでいた俺も、当然ひと通りの知識・教養の類を身につけていると踏んだのだろう。
そんな境遇と懐具合とに目をつけられたと言っても過言ではない。
だが、医師としては未だ半人前でしかない俺が、このまま跡を継ぎ独り立ちしたところですぐに立ち行かなくなるだろうと男は言った。
(その言い種に腹が立たないわけではなかったが、実際男の言う通りだろう。半人前の、腕の立たない医者など誰が必要とするものか)
ならばこの際医者の道は諦め、商家の大店の入夫になってはどうか?とも言った。
婿に入ればいずれは跡を継ぎ、大店の主人となるのだから将来は安泰。
今ある財を投げ打ってでも、全て持参金として婿に入るのもそう悪い話ではない筈だ、と。
何より跡取り娘の乱菊は大層な美人と評判だから、妻にするには申し分ない筈だ、と。
その下卑た口車に乗せられたわけでもないけれど。
向こうが…娘が乗り気であると云うならば、こちらとしても断る理由は特にない。
だから持ち掛けられた話を了承し、所帯を持つことにした。この女と。
だが、顔を合わせてすぐに察した。
縁談に乗り気であったのは、持参金目当ての親ばかり。
肝心の女の方は、この縁談に然程乗り気でなかったことに。
むしろ戸惑いすら見せていたのだ、この俺に。
この俺の『妻』となることに。
だがそれは、至極尤もな反応とも言えた。
先ず、年齢が釣り合わない。
見目が釣り合わない。
幾ら持参金を揃えられるだけの金があったにしても、医者崩れでしかない俺と名の知れた大店の娘とでは、そもそも身分そのものが釣り合わない。
そう考えているのだろうことは明白だった。
そして肝心の娘があれほどの戸惑いを見せた最たる理由が、店で働く手代の『男』にあることに、入婿となって間もなく俺は気付いたのだった。






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