[携帯モード] [URL送信]
9.


なんでも女は、労咳の母親の面倒を看ながら本所回向院傍の料理屋へ、女中として通いの勤めをしていたらしい。
だがここ一年余りの間に母親の具合は急激に悪化し、やがては床を離れることも出来なくなった。
女にとっては、たったひとりの母親であり、唯一残された身内でもあった。
ゆえに、その看病のためにと、自然仕事も休みがちになった。
となれば当然、実入りは減る。
一向に良くなる気配のない母親の看病と、日々の暮らしの掛かりが重く彼女に圧し掛かり、困った女はとうとう店の主人へと相談をした。
女の話を聞いた店の主人は、すぐにも腕がいいと評判の医者を紹介してくれたばかりか、借金の申し出にも快く応じてくれたと云う。
それを女は、一切疑うようなこともなかった。
バカ正直に金を借り、医者へと母親を診せたのだ。
だが、腕がいいと評されるだけあって、毎回の薬料は恐ろしく高く。
また、都度の診療代もバカにならない額を取られていたらしい。
それでも良くなるものと信じていた。
信じて薬を飲ませ続けた。
医者の元へと通ったのだった。
なのに結局病は治ることもなく、況してや女の看病の甲斐もなく、母親は月の初めに静かに息を引き取ったと云う。
「気付いた時には借りたお金が結構な額になっててねえ。おっ母さんの初七日が終わってすぐに、返す当てがないならいっそ深川の出店(支店)で働いてみたらどうか?って、結構しつこく打診されてたのよ」
「…深川?」
「そ。あっちに色茶屋を出しているから、返す金が無いんならそっちで働いてみないかって」
ちゅるりと蕎麦を啜りながら、恐らくは…借金の申し出に応じてくれた当初から、その腹積もりだったのだろうと、諦めたように女は言った。
どうやら女の働く料理屋では、酌取りの女中に裏で客を取らせもするらしい。
とは云え店からの強要は特になく、客を取るも取らないも、あくまで女中の一存による。
だからどんなに客から言い寄られようと、女にその気はなかったようだし、笑って往なすのが常だったようだ。
――給仕はしても、客は取らない。
本来であればそれで済んでしまう筈だった。
けれどこの女の場合に限っては、少しばかり店の勝手が違ったらしい。
人目を惹く華やかな容姿と、服の上からでもわかる艶冶な肢体。
気性は明るく、客あしらいにも長けているだろうことは、会ったばかりの俺にも充分窺えたから。
「なーんかね、以前からそーゆーお客さんが多かったみたいで、お店の方じゃもったいない…って思ってたみたい、あたしのこと」
この女に執心する客の数が事実少なくないだろうことも、そんな話の一端からでも容易に察せられた。
あくまで給仕に徹したい女と、そんな女の色香に執心する客と。
法外とも云える額の金を示して女を買おうとした客も中にはいたようで、むしろ金に目が眩んだ店の主人の方にこそ、思惑と打算が働いたのだろう。
思いがけない借金の申し出と、寝付くほどに悪化したと云う母親の件は、店側にしてみれば女を言いなりに出来る思いがけない好機だったに違いない。
そうして女はものの見事に罠へと掛かった。
今まで通り働いただけでは、到底返す当てのない、大きな借金を抱えるはめにまでなったのだ。







[*前へ][次へ#]

10/21ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!