短篇小説集
『雪の轍』
私の双子の姉は、死んだ。
姉は体を深紅に染め私の目の前で亡くなった。その時の情景は幼い私の心を凄惨なまでに深く抉り一生癒せない傷を負わせた。
私は交通事故に遭った日の事は今でも忘却出来ないでいた。私はその事故で負ったその癒せない傷のせいか、あの時から時間を刻む事を忘れた懐中時計のように私の世界は止まったままだった。
何故なら私が愛する姉を殺したのだから。
瞳を閉じれば、蘇ってくる。あの日――交通事故で姉を亡くした日のことを。
その日は街が白い結晶に包まれたとても寒い夜だった。
まだ幼かった私たちは、お揃いの長靴にマフラーに上着を羽織り手を繋きながら白く霞んだ天から降り積もった白い結晶に嬉々として燥いで足跡を残していた。
姉のあの時の手の温もりは脳裏に焼き付くほど温かくそして生に漲っていた。
そういえば、先程会った飴おばさんと私たちが呼んでいる飴をよくくれる近所のおばさんが、私たちは二人で一つだねって言ってくれたのを聞いて私たちは同時に破顔したのを憶えている。
よく意味は解らなかったけど、多分私たち姉妹の仲がとても良いねという意味の褒め言葉だと思った。
続けて、雪遊びもいいけど最近車が多いから気をつけてと言われたけど私たちには関係ないなと思って聞き流してしまった。というよりも、飴おばさんの握った掌の中にある飴に夢中だったから、果たしてその時私に耳が付いていたのかどうか定かじゃなかっただけだけど。
そして、いつものように私たちは飴を貰った。
その包み紙には『Werther's Original』と書かれてあったが幼い私たちには何ひとつ理解出来なかった。
私たちが封を開けていると飴おばさんが、私たちを見てるとあげたくなると言っていた。一足先に封を開け飴を堪能している姉がその意味を尋ねていたけど、私は飴を開けるのに全神経を傾けていたので、全く聞こえなかった。姉はその意味を聞いて感心してるようだったけど、私は飴に感動していた。うん、美味しい。
公園への道すがら、姉は車の轍にしばしば興味を抱き惹かれていた。どうやら姉は緻密に出来た轍を指で崩すのが好きらしい。
私たちは双子しかも一卵性双生児とはいえ、多少の性癖の差はある。全く同一な人間という訳じゃない。だから何が面白いのかよく解らなかった。因みに私が姉によく言われるのは、たまに理解出来ない事をするだそうだ。それには私も同意見だ。
それから私たちは雪合戦したり雪達磨作ったりして手が悴んでいたがそれでも遊び続けた。
私たち以外みんな色を失ったような白い闇の空間の中で時間を忘れ燥いだ。
私たちは汗を垂らしながらずっと雪遊びをしていたため疲れ果て、お腹の虫も鳴り止まないので帰途に着くことにした。
学校で習った歌を口遊みながら手を繋いで帰った。
家路に着くまでの間、姉は路傍に駐車する際に出来た轍にまた魅了されていた。
空腹でしかも元々私の方が短気な性格だったから、姉のその性癖には厭気が差していた。
早く帰ろうよと慫慂しても姉は、ちょっと待っての一点張りだった。
そこへちょうど姉よりも右方の路傍に車が停まった。エンジンが掛けっぱなしらしくエンジン音とライトが白い闇を劈いていた。
――そして車に轢かれ、姉は私の目の前で、亡くなった。
その光景はまるで、私が私自身を轢いたようだった。
私を呼ぶ声が聞こえる。
私を呼んだ人は清潔感溢れる純白を纏った人だった。その人は看護師という人らしい。私には解らないけど。
どうやらその人は回診に来たらしい。血圧、体温を計って、そしてほどなくして他の患者の回診のため出て行ったと思う。
あれから、唯一無二の妹を亡くしたあの冬の日から世間では十年経つらしい。
私はあの事故の時、頭を強打したせいで後遺症が遺り、記憶があの日から止まったままだ。というよりも、私は記憶した事をすぐに忘れてしまうらしい。最も、意識があるのかさえも判然としないけど。
それはすなわち、私は生きながらにして死んだのと同義だろう。
病室の窓から覗く景色は、一面銀世界で雪の絨毯が敷き詰められている。その景色を見る度血に塗れた妹の事を思い出していたたまれない恐怖と罪悪感に駆られ体が顫動する。
妹と手を繋いだ左手を見遣る。とても柔らかくて心地よかった妹の手の温もりが蘇る。
すると、一条の涙が頬を伝う。
次々と涙が滂沱のように零れてゆき、止まらない。
私はすすり泣きながら、途切れ途切れに妹に懺悔する。
「ご……めん、なさい…………。私が……私が…………貴女を、殺しちゃった、のよ……ね」
私のすすり泣く声だけが、精謐な病室に響き木霊していた。
あの時、私は不思議な物を見た。それは姉が興味を抱いていた轍を眺めていたら、右方から白い闇を劈きながらこっちを猛進してくる何かだった。
私は白い闇を劈くその光が車のライトだという事を撥ねられてから漸くその何かが車なのだと気付いた。
私は即死だったと思う。途切れゆく意識と視界は紅く染まってゆく。
その最中で血塗れになった私を姉が近付いて来て抱き締めてくれた。姉の体温はとても温かかった。
ほどなくして私は駆け寄って来た姉に看取られ、そしていつも私の傍にいてくれた姉に対して、今までありがとうという微笑みをかけ、私は姉を亡くした。
私の傍にはもう、あの優しかった姉はいない。
それはほんの興味に駆られた事だった。
私は自分で轍を作ってみたくなったのだ。だから、私と同じように轍を眺めている妹の目の前で作ってみせたかった。
そのためには車が必要だった。とそこへ、ちょうど右方に停車している車を認めた。
その車に近寄る。運転席のドアは解錠されていたため容易く開いた。早速乗り込んで、アクセルを踏む。
操作は親のを見て憶えていたので簡単に出来た。
私はライトに照らされた視界の左方で蹲って轍を見ている妹を認めた。
車が真っ直ぐに進んでくれたら、妹を驚かせられて且つ妹の目の前で轍を作ることが出来た。
しかし、私の意を反して車はアクセルを強く踏みすぎたせいで勢いよく進む。
私は急な慣性力に吃驚し、その拍子で肘がハンドルを突いてしまった。そのため車は瓜二つの妹に照準を向け突進し始めた。
徐々に妹との距離が縮まる。この時だけは時間が断続的に経過しているような錯覚に陥った。
妹はただただ蹲って瞠目する事しか出来ないでいた。
「早く逃げてー!」
私はブレーキもハンドルも操る余裕なんてなく、そう咆哮するしか出来なかった。いや、もしかしたらそれさえも出来なかったかもしれない。
私は怖くて瞼を閉じてしまった。
そして、全身の骨や神経、五感を動揺させる鈍い音。
一刹那だけ視界に黒くて丸い小さな何かが掠めたような気がした。
鈍い音が轟いても車は狂ったように止まらない。
妹を轢いた車は歩道に乗り上げ、路傍に等間隔に並べられた街灯を拉げ漸く静止した。
街灯を拉げたその反動で私はハンドルに頭をぶつけ脳震盪を起こしたが、必死でドアを開けて降りて横たわる妹にふらつきつつ近寄っていく。
体の自由を奪うほどの眩暈を必死にこらえ、打撲したのか右脚が思うように動かなかったけど、それでも私は妹の元へと歩み寄る。
白く霞む天からは白い結晶が降り始める。天も私たちを憐れんで泣いてくれたのだろうか。
妹の周りだけ白い筈の結晶が紅い絨毯になっている。その紅い絨毯の端は蠢き、絨毯の裾野は徐々に広がってゆく。
私とお揃いの服装を纏った妹が翳み歪んで見えたが、死力を尽くしてなんとか妹の傍まで来れた。
膝をつき震える手で妹をそっと抱き寄せる。手を繋いだ時の温もりはもう失われ、体温は雪のように冷たかった。
その雪を溶かすように熱い涙が眦から頬へ伝い、妹の頬へ零れる。
虚ろな瞳をした妹は私を認めると、そっと微笑んでくれた。
私は妹のそれを見て全神経を引っ張られ緊張したような衝撃を受けた。
そのまま眠るように目を瞑る妹に問うた。
……どうしてこんな私に、微笑んでくれるの?と。
その問いに答えてくれる妹は、もう息をしていない。
私は、冷たくなった妹を強く抱き締め、嗚咽した。
私は思い出す。飴おばさんが言った、私たちは二人で一つだという意味を。それは――
私にとって妹は特別な存在で、生きてく上でかけがえのない大切な存在だっていう意味なんだって。
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