現 -2 その声は、尉濂の右手から聞こえてくる。言い争いをしているようだった。 男達と尉濂とを仕切る襖には、桜と戯れる小鳥が描かれていた。 矢張知らない所だ。 こんな襖、浅桐の屋敷にも一柳の屋敷にも無い。 布団から這い出た尉濂はその襖を細く開けて隣を窺った。 そこに居たのは、長い白銀髪を後ろで無造作に束ねた男に、背中から大きな翼を生やした男だった。向かい合うように座っている。 この男達に、尉濂は覚えがあった。 昨夜……。 小さな心の臓がどくりと跳ねる。 「だから行かんと言ってるだろうが!」 「分かった分かった。じゃあこうしよう。多江姉に婆さんの機嫌を取ってもらってだな…」 八朗は両手で耳を塞いで激しく首を振った。 「おのれ、お多江様で釣ろうとは卑怯者め!お多江様を妻に迎えるその日まで儂は西生には──……はっ!」 己が何を口走ったのか気付いて口を覆ってももう遅い。溯は心底残念なものを見る目で、げんなりと天狗に言った。 「……弟の俺が言うのも何だが、あの人の側に案穏は無いぞ」 八朗は苦しげにくっ、と顔を逸らせた。 「そんな事、儂が一番良く分かっておるわ。あのお姿が目の端に映るだけで胸が絞めつけられ、言葉を交そうものなら身体中の血が逆流を始めるのだぞ。お側に寄り、ふ、触れる事など、今の儂には到底……!」 感極まっている八朗だが、無論溯はそんな意味で言ったのではない。 八朗にかかればまるで後光でも射しているかのようだが、溯に言わせれば多江の周りを取り巻いているのは獲物を待ち構える蜘蛛の巣である。 友の安全の為に多江にはとっとと嫁に行って貰わねばと思った時だ。溯はそれに気付いた。 「起きたか尉濂」 突然声をかけられ、子供はびくりと体を顫わせた。さっと襖が開けられ目の前に白い男が立っている。 その顔を見るには首を思いきり上げねばならなかった。丁度父や家臣達を見上げるのに近い。 その顔がすっと降りて来たかと思うと、大きなものにがしりと頭を掴まれた。 「良く眠れたか? ん?」 何か訊かれているようだが、声が出ない。尉濂は背中に汗が噴き出るのを感じた。 「…溯、手を放してやれ。怯えてるぞ」 八朗を振り返って再度子供を見れば、成程硬直している。 手を放すと子供はぺたりと座り込んでしまった。 撫でているつもりだったが、何か違ったようである。 「撫でるだと?お前、それは撫でているんじゃなく動きを封じているんだ。お前みたいな奴にそんな風にされては喰われると思うのは当たり前だ」 勿論尉濂は喰われるだなどと言ってはいない。 「覚えがあるような口ぶりだな」 「昔、景実公にな」 その名前に尉濂は反応した。顔を上げると天狗がこちらにやって来る。白い男に比べて随分優しげな面立ちをしていた。 八朗はそっと小さな肩に手を置く。 「何も怖がることは無い。我等は隆茉の友人だ」 溯がその後を継ぐ。 「昨夜も言ったが、お前はこれからここで暮らす。が、その前にどうしても通らねばならん関門が二つあってな」 その場に上蔵をかき、溯は指を二本立てた。子供がぽかんとしているのにも構わず、ちょいちょいと立てた指を動かす。 「じじいとばばあだ」 「お前……他に言い方はないのか」 「爺ぃは昨日済ませたが、問題は婆さんでな」 残った人指し指をうろうろと動かしたかと思うと、何と溯は子供の柔らかい頬に突き刺したのだ。 「!!」 くいくいとつつく。引っ張る。片手で両頬を押し潰す。 尉濂は泣き出す寸前だ。 「…面白いな」 「遊ぶな!」 大きな目にどんどん涙が溜るのを見て漸く八朗は友の白い頭をひっぱたいた。 対して尉濂には優しく撫でてやる。 「撫でるってのはこうやるのだ」 「へぇ〜」 [*前へ][次へ#] [戻る] |