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空の狗/傍ら‐3



「何も。ただ、矢張貴方に嫁がなくて良かった、とは思います」
 何も聞かされない御台所が不憫だ。そう言うと桂丸は首を傾げた。
 灯奈乃の事も馨子の事も桂丸にとっては雪代と出会う前に終わっている事だった。今一つ、馨子の言葉が呑み込めない。
「……別に隠している訳じゃないが……。確かに君の事はいずれ耳に入るかもしれんが、そういう話があっただけで全く何も無かったろう。他の女を好いている男に嫁ぐのは絶対に嫌だと言ったのは君だろうに」
 お陰で亡き父には散々嘆かれ、襲名して篁夜連へ登城するようになると宗禎からは五度に一度は「馨子はどうしているか」と訊かれていたのだ。それに比べれば灯奈乃の事など無いに等しい。
 雪代を煩わせる問題など、全く見当たらない。
 そう言うと馨子は余計憮然としてしまう。それを尻目に桂丸は続けた。
「路灯には、不幸な形に終わった両親の分まで幸せになってもらいたいと思ってる。確かにそれは、あの人の幸せを願った経緯があっての事だ。でもそれ以前に、あんな仕打を目にして黙っている方が無理だ」
 桂丸だって事を表沙汰にする気など更々無い。賊がいたと云うなら口裏を合わせる用意もあったのだ。
 しかし化野が採ったのは周囲への根回しではなく生き証人を隔離する方法だった。
 隔離と言っても、あれは消極的な口封じに等しい。これまで使用人を従えていた子供があんな山中でたった一人で暮らすのは容易な事ではない。
「君はそれでも放っておけと言うのか?」
 忽ち侍女は苦い顔になる。哀れと思ってはいるらしい。
「……せめて御台様にはお伝えになるべきです。目をかけている子供が居る、と」
 だから黙っている訳じゃ…と呟く桂丸を睨めつける。
「女子は嫉妬深いものです。夫が、自分が産んだ子と同じように昔慕った人の忘れ形見を気にかけていると余所から聞いて、良く思う筈はございません。せめて貴方の口から知らせて差し上げませ」
 そうなのだろうか、と桂丸は考える。さっきだってせっかく睦んでいたのにあっさり送り出されてしまい、密かに悲嘆に暮れているのだ。路灯の事を聞いて嫉妬する雪代……頗る愉しい想像のように思う。
「………桂丸、碌でも無い事を考えるのはお止め下さい」
 冷えた声で指摘され、桂丸は弛んだ口元を引き締めた。ばれている。
 しかしこの考えを棄てるのは惜しかった。桂丸は必死に頭を回転させて話を逸らす。
「───ところで馨子、そろそろ復帰してはくれないか。君を連れて来るよう、宗禎殿に再三せっつかれているのだが……」
 あからさまな話題転換に侍女は一層表情を険しくしたが、息を吐いて渋々話に乗ってきた。
「そう言われましても、下の子はまだ幼く、家を空ける訳には参りません」
 子宝に恵まれているのが此処にもいた。四代目の折、次代景実との縁談を蹴った癖に剛ヶ渕に嫁いできた宗禎の曾孫姫は、現在一男一女の母なのだ。彼女が嫡男を産んだと宗禎に伝えたのは記憶に新しい。
 馨子は子供を乳母に預けるのを嫌がり、ほぼ全て自分で面倒を見ている。今だって暇をみては自宅に戻っているのだ。
 景実に嫁げばそんな事もままならなかったろうと馨子は言う。確かに、隆茉には乳母を付けていた。
「宗禎様の言うことなど聞き流されませ。ただの年寄りの戯れ言です」
 その台詞は身内だから言えるのだ。桂丸は空笑いでそれに応えた。
 悪阻が来たから休ませてくれと馨子が言ってきたのはその一月後、雪代がこの侍女の素性を知り孕まぬ己れを恥じて郷を出奔し大騒動になったのが更に一年後の事だった。

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