空の狗/傍ら 天狗のさらしが取れたのはそれから十日程経ってからだった。阿田子へやった遣いはまだ戻らない。 庭先に集まった郷の子らに混じってわやわややっている姿を妻に膝枕されながらぼんやりと眺める。 自分の意思で霊山を脱け出して来たと云う事だが、あの手の山には強力な結界が張り巡らされていると聞く。内側からなら、或いは特定の者、または通過する術を知る者なら通す類なのか。 ふ、と耳に息がかかり「終りましたよ」と声が降りてくる。 「……御前様?……寝てしまわれたの?」 頭を撫でられ、景実はくすりと笑って妻を見上げた。 「ああ、あまりに心地良いからな。しかし久方ぶりにそなたとこうしているのに寝てしまっては惜しいから、頑張ったよ」 頬を撫でれば「お上手ですこと」と言いながらも雪代は手を重ねてくる。 むらむらと愛しさが込み上げてくる。口でも吸うてやろうかと起き上がったところで、奥からパタパタと娘が駆けて来た。 「じゃあ父さま!遊びに行って来るね!」 雪代がはしたないと注意するが果たして聞いているのやら。さっさと庭に下り、子らの群れに混ざって行った。 隆茉の後に続くように少年がやって来た。 「では御館様、行って参ります」 何ともやりにくそうな顔に、景実は笑いながら言った。 「統矢、親父の言う事なぞ気にせんでいいぞ」 「はぁ……」 それでも矢張困ったように腰に佩いた刀を見つめている。 「栄斉は何と言ってお前を送り出したんだ?」 天狗の監視役から早々に外されてしまった栄斉が、ならばと送り込んだのがこの倅の統矢だ。別に家臣の誰かにでもと思っていたのだが、栄斉に押しきられてしまった。 統矢もほとほと参ったと云う顔だ。この子のこんな顔など中々見れるものではない。 「……少しでも不審な動きをしたなら斬って捨てよ、と……」 雪代がまあ、と驚嘆とも相槌とも取れる声を出した。 景実は重い溜め息を吐く。長い付き合いである。この手の話をする時、栄斉は七割方本気なのだ。 統矢の言葉はまだ続く。 「霊山──伊集茂を敵に回す積もりかと訊けば元より敵対しているようなものだと言われました。ですので先ず篁夜連に伺いを立てるのが先ではと言えば同じ事だ、と……」 如何にも栄斉が言いそうな事である。 しかしここへ来て、景実は篁夜連への通達を全く考えていなかったのに気付いた。思い返してみても誰からもそんな奏上は受けていない。 それとも裄邑辺りが止めているのか。 頭を下げた統矢が号令をかけ、群れを引き連れて庭から出ていく。最後尾の背中を見送って、景実は再び妻の膝を枕にした。 しかし間発入れずに家老の声がかかる。 「お休みのところを誠に申し訳ございませぬ」 どうやら家老は庭が空くのを待っていたようだった。 「公邸の馨子殿から言付けを賜りました。六閣の遣いが戻った、との事でございます」 その知らせに景実は勢い良く身を起こした。妻を顧み、短く詫びる。 「ご公務ですもの。仕方がありませんね」 潔過ぎる妻に寂しさを覚えながら景実は回廊を渡って公邸へ向かう。仕切り門を潜ったところで馨子が待っていた。 「鶯谷の間に待たせてあります」 鶯谷の間には子供が一人、叩頭して桂丸を待っていた。 そんな事はしなくても良いと幾ら言っても、この子は聞かないのだ。 向かいに腰を降ろしながらおかえりと声をかける。 「手間をかけさせて済まなかった。翁衆に知られると煩くて───……、路灯、顔を上げなさい」 そうしてようやく、隻眼の子供は恐る恐る身を起こしたのだ。 「……頼政は息災だったか?」 「はい。文を預かって参りました」 「爺共、実の弟と親交を持って何が悪いんだ……」 文を手繰りながら桂丸はぼやいた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |