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他に知るものは無く -3

「姫様は幼い頃より公邸に出入りされていて我等とも心安くして下さっていた。それでも弱味を見せられる程に信は無いと云う事なのかもしれん」
 これに馨子は首を振る。
「近くに居るからこそ弱さを見せたくないと云う事もございましょう。重責を背負われた身なら尚更…―――ただ、お気持ちの整理が調わないのでしょう。その状態のまま桂丸に成ろうとされている……。お可哀想な事です」
 そうしてどんなに隆茉が踏ん張っても、足を掬おうとする輩の多いこと。
「郷に戻ったら裄邑に言って少し休みを貰おう。こういう事は時間が――」


 ―――――――!!


 皆ぴたりと動きを止めた。次いで何事かと腰を浮かす。
「…何です? 今の……」
 風などではない。しかし空気が顫えていた。
 膝立ちになった統矢は障子を凝視する。その視線の方角には。
「……隆茉の声ではないですか?」
 聞くや否や馨子は座敷を飛び出していた。遅れて洋治郎も走り出す。
 裾を蹴立て廊下を進むが広い離れだ。奥に設らえた桂丸の寝間に辿り着いた頃には皆肩で息をしていた。
 叩きつけるよう襖を開けると、唯一馨子と共に来ている侍女のはるが桂丸に水を飲ませているところだった。桂丸を抱き起こして背中を摩っていた汕之輔が振り返る。
「姫様!」
 桂丸の顔色が尋常でない程蒼い。馨子は崩れ落ちるように桂丸の側に膝をついた。
「少し怖い夢を見たようなのです」
 水を飲んで些か落ち着きを取り戻してはいるようだが、桂丸の顫えた手はまだ汕之輔の袖を握り締めている。
 馨子は振り返って洋治郎を見上げた。どういう事だと睨まれても分かる筈もなく、はると場所を代わって主の顔を覗き込む。
「――大丈、夫…だ。す…すまん……もう……」
 大丈夫である訳がなかった。
「おぉおぉ、よう集まったの」
 戸口にたむろする臣達を掻き分け、椀を持った猗左衛門が現れた。椀を受け取った汕之輔はうつ向く桂丸の口にそれを宛てがう。
「さぁ桂丸、ゆっくり飲みなされ」
 猗左衛門の声に押され、桂丸はゆるゆると視線を上げる。椀の中には如何にも苦そうな汁が入っていた。
「…何です?」
「篁夜連秘伝の気付薬だ」
 洋治郎の顔が歪んだ。これが地獄汁か。
 汕之輔の手を借り桂丸は椀に口をつけ、直ぐにむせた。
「全部お飲みなさい」
 渋い顔のまま桂丸はまだ咳をしている。「水…」とはるを呼ぶのを老爺の皺のよった顔が遮った。
「――何だこれはっ…」
「薬草など色々入った薬ですよ。良薬口に苦しと言うでしょう」
 猗左衛門の後ろで洋治郎が蒼くなった。何しろ篁夜連秘伝だ。「誰が」作ったのかを考えると原材料を色々、と濁す気持ちも分かる。洋治郎の更に後ろ、同僚に混じって中の様子を伺っていた信恭が小さく悲鳴を上げた。
 何度か攻防した末何とか椀を干し、直ぐ様水を飲んでようやく桂丸は人心地付く。汕之輔が頭を撫でた。
 あまりの味に悪夢の残像など消え失せていた。寧ろこのとんでもない味の方を夢に見そうである。
 桂丸が落ち着いて来たのを確認し、馨子は主人に着替えるかと問う。悪夢を見たと云うなら寝かせておくのは逆に酷だろう。首肯が返って来たので手を叩いて男達を部屋から追い出した。
 はるが布団を畳んでいる傍らで桂丸の帯を締めながら馨子は主の様子を伺う。紅い髪が頬にはらりと垂れていた。
「―――姫様、髪でも結いましょうか?」
「桂丸だ!」
 思い掛けず強い口調に馨子は動きを止めた。桂丸自身も己れの声にはっとしたようだった。
「…あ…、……そうだな。頼む」
 怪訝に思いながらも桂丸を鏡の前に座らせ、馨子は櫛を取った。
 長い髪を櫛削りながらちらりと鏡の中を覗く。
 夢を思い出してしまったのか、桂丸はぎゅっと目を瞑っていた。

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あきゅろす。
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