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沼 -4

 五代目桂丸がその任に就いた頃から桂丸付きだった侍女だ。「五代目」の事なら何でも知っている。
 父が不意に洩らした独白も、この侍女は聞いている。
「……何か、お聞きになったのですか……?」
 桂丸はくっ、と自嘲を零すと寝返りを打ち顔を逸らしてしまう。
「尉濂が生まれるや否や、父は私の嫁入り先の心配までしていたそうじゃないか。……とんだ道化だ」
 日に日に膨れていく母の腹。女であってくれと、隆茉は何度願ったか知れない。嫡男の誕生に舞い上がった父の後ろ姿に、隆茉はどれ程絶望したか知れない。
「姫さま、あれは所詮酒の席での戯言です。決して本心から言ったのでは……」
「酒だろうと何だろうと、思ってもいない事は口から出たりはしないものだ」
 馨子は内心舌打ちする。何処の阿呆が漏らしたのだろうか。
 五代目が「うちの娘を嫁にどうか」と言ったのは事実だ。決して弱くはない彼の呂律も怪しくなる程の酒が入っていた。
 相手は大丞だった。
 社交辞令だ。酌をしながら聞くとはなしに聞いていた馨子だったが
「貴方の倅を名乗れるのならば喜んで」
と見たことも無い程優美な笑みを浮かべて答えた大丞にぎょっとした。
 五代目はそうかそうかそれは良い、とケラケラ笑いながら杯を干していたので見ていなかったろうが、あの大丞の目は半以上本気だった。五代目桂丸と義理の親子になれるなら妻となる女がどんな醜女でも構わないとその眸は語っていたのだ。
 翌日、酷い二日酔いで唸っている五代目の枕元で堪らず馨子は説教をした。娘の努力も覚悟も全て溝に棄てるお積もりかとまくし立てた。
 頭の上でギャンギャン吠えた事か、或いは雪代の耳に入れるぞと脅したのが効いたのか、五代目は早々に白旗を上げた。更にその翌日、宴席での失言を撤回させに送り出したことで安堵していたがそれだけでは不足だったようだ。
 五代目を慕う者は多い。明朗快闊で鷹揚、その上茶目っ気もある男だった。口煩い翁衆の目を盗んで裄邑やどこぞの親父と釣りに出掛けたり、郷の子らの事もよく構ってやったりと民に深く交わってきた主だった。
 そのいずれかに惹かれるものがあるのか恩でも感じているのか、馨子はひどく景実に傾倒している者を知っていた。
 景実への滅私奉公こそを何よりの支えとして生きているような奴である。若く健康で、何より「自由」なのだから己れの為に生きれば良いのにそうはしない。
 程度の差こそ有れそれは大丞にも言えた事だろう。今の話だけでもその度合いが伺えると言うものだ。
 あの時同席していたのは誰だったろうと思い出しながら馨子は桂丸の背中に問う。
「他には何を耳に拾ってきたのですか? 覚悟を決めて登城した筈の貴方様をこうも沈ませている物の正体、この馨子にもお教え下さいませ。知る限り解説し、反論して差し上げます」
 くすり、と小さく笑い声が洩れる。桂丸は再び寝返りを打って侍女と向き合った。
「多いぞ?心して聞け」
 笑顔を張り付けたまま桂丸は口を開いた。

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あきゅろす。
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