昔語りに零るる雨の
「……そうか、何事もなくて良かった……」
嶋津汕之輔はその知らせに胸を撫で下ろした。
桂丸は無事一木に戻ったと言う。わざわざ探しに出たのに徒労に終ったが、この手の事はそうなる方が良い。
知らせに来た侍従がきょろきょろと首を巡らせる。
「渡様はどの辺りを探しておられるのでしょうか?」
本殿に入ったところで二手に分かれたので、居るとすれば仁重殿か表座敷辺りか。城付きでもない侍従の身分ではそこまで入れない。
「どら、儂が伝えて来よう。お前は戻れ」
篁夜連の本拠、舞冥城には危険も多い。特に夜ともなると小飼の魑魅魍魎らのたてる唸り声が地下から聞こえて来ると云う。汕之輔が請け合うと、侍従はぱっと嬉しげに笑みを溢した。
一木に戻って行く背中を見送って、汕之輔はやれやれと肩を回す。
「姫様の次は統矢探しとは…。手間の掛る若人たちだ」
溢しながらも、汕之輔は楽しげだ。
◇◆◇◆
その姿を見つけたのは仁重殿へと伸びる回廊の張り出し部分だった。宵闇の中、月光を浴びながら欄干に身をもたれて話込む二つの背中に近付いた。髪が風に躍る。
「近頃の冷たい風は空きっ腹に染みますな」
振り返った統矢が僅かに目を見張る。
「統矢、桂丸が戻ったそうだ。我らも戻るぞ」
「あ……」
汕之輔はいま一人に向かって頭を下げた。
「大丞様には、ご機嫌麗しく」
昔から大して機嫌など麗しそうにも見えない仏頂面にそう言うと、汕之輔はにこりと笑う。
大丞はちょいと口の端を吊り上げる。
「今度の桂丸は随分手が掛るようだな。先が思いやられる事だ」
苦笑しつつも二人に並んで欄干に手をかけ、汕之輔は宵に沈んだ景色を一望する。今夜の月は少し暗い。
「ええ、そうですね。まるで四十二年前の貴方を見ているようです。あ、いや、大丞様はもう少うし愛想が無かった」
大丞の向こうで統矢が表情を硬くした。当の大丞は小さく笑う。元から笑うのが得意な男ではなかったが、月日を追う毎に増えていった笑顔も、今はぎこちない。
再び景色に目を向けて汕之輔は気付いた。
「――ここから見るこの風景、当家の先代は大層お好きでいらした」
時折吹く風が大丞の藍の髪をさらう。
「あまり、気を落とされますな」
大丞の肩が震える。統矢はその様を黙って見つめた。
六代目を探しにやって来てみれば、見つけたのは大丞の姿だった。その哀愁漂う背中に黙って立ち去る事が出来ず、声をかけたのだ。
泣きそうなその顔に、あえて五代目の話を避け、とりとめの無い話題を選んだ。その内統矢は、何の為にここに来たのか忘れてしまっていたが。
「……………それは、私が貴公らに言うことだ」
大丞は泣かなかった。ただ静かに笑う。
「この景色、郷に残した妻にも見せてやりたいと、よく言っておられたよ。日の本一の妻だと、散々自慢された」
大丞は言葉を切る。
「いつか奥方殿にもお会いしたいと、」
最早そのどちらも郷には居ない。
隆茉が弟に桂丸の座を譲らなかったのと同じく、御代所雪代も五代目の介添人の役を強く希んだ。
「……このような刻限にこのような場所に貴方様をお引き留めしては、そちらの喜多原殿が心配しているでしょうね。ちょっと行って知らせて参ります」
統矢が言った。寄りかかっていた欄干から身を起こし、大丞の返事も待たずさっと踵を返す。
振り返る汕之輔にひらひらと手を振って回廊を渡って行った。後は任せたと云う事らしい。
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