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己を捨てた日‐3
 鎬把は痛みと憤りに目を見張り、再び隆茉を壁に叩きつける。しかし今度は呻き声さえ発さなかった。隆茉は寧ろ更に強く爪を立て、年下の男を睨み上げる。
「あの子供は私を排除する上で有効な急所だと連中は考える。殺すならまだ良いが、拐ってから自分たちに従順するよう育てる事も出来るだろうが。そうなればどうなると思う?」
 鎬把は苦々し気に唇を噛んだ。
「郷は二分。最悪戦となるじゃろうの」
 鎬把の後ろから絃衛門が言った。
 それでも鎬把は、襟元から手を放せない。理屈ではないのだ。
「……尉濂の気持ちはどうなる!? 尉濂だっていつまでも小さいわけじゃない。それを突然何の説明も無しに追い出すなんて、卑劣だ」
 桂丸の唇が声を上げずに「ひれつ」と繰り返し、いくらの間も開けずに口角が持ち上がった。
「!!」
 鎬把は思わず顔をしかめる。
 桂丸の爪が、とうとう彼の皮膚を突き破っていた。滲み出た血は桂丸の髪よりも鮮やかな赤。乱れて垂れたその色の向こうから鋭い光が鎬把を射抜く。
「同情か?」
 放たれた言葉には笑いさえ混じり、鎬把を睨み上げる桂丸の暗い眸だけが強烈な思いを伝えていた。
 桂丸は自分を抑え込む力が緩んだのを見て怯んだ鎬把に向かって一歩踏み出る。鎬把はそれから逃れるように一歩退く。まだ襟元は掴まれたままだったが、桂丸は自由の身だ。
「憐れみか?」
 簡単にその手を振り払い、桂丸は宣言した。
「お前の主は吾だ。そなたが後ろからごちゃごちゃ言おうと吾の決定は覆らない。―――私が桂丸だ。私に従え!」
 何の言葉も浮かんでこなかった。
 ただ、数刻前に「桂丸」になったばかりの女に、鎬把は圧倒されていた。
 あんなに不安気にしていたのに。
 当主という冠の有無で、こんなにも変わるものなのか。緋い頭がくるりと動く。鎬把は蝸牛にでもなってしまったようにのろのろとした動きでその緋から視線を逸らせた。
「梓野、後は頼む」
 侍女が頷くのを視界の端に捉えながら、桂丸は絃衛門に軽く会釈をし踵を返す。その足を止め後ろを覗くと、怒りにかそれとも侮蔑にか、鎬把の拳が微かに震えている。
「………喜びや悲しみ、同情し哀れみ憂える心は、もはや私には必要とする術が無い。ならばそれはお前が持て。私にはそれを抱えていられるだけの資格が無いから」
「……資格なんて……」
 誰が取り上げられると言うのか。そんなものは誰しもが必ず、当たり前に持っているものだ。お前にだって、と顔を上げた鎬把は突然目の前から消えた桂丸がずっと先の渡り廊下を歩いているのを見つけ肩を落とした。
「聞けよ」
 鎬把の傷付いた腕を取りながら、梓野が小さく吹き出した。

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あきゅろす。
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