己を捨てた日‐2
騒がしく廊下を走る音がする頃には、二人の姿は靄と共に消えていた。鎬把は桂丸らには目もくれず、裸足のまま外に飛び出した。
薄く靄が残っている。鎬把は小さな姿を探しながらその名を呼ぶ。しかし聞こえるのは自分の悲鳴のような声ばかり。風に揺れる梢、夜露の煌めき、藍色の夜空に浮かび上がる雲を纏った細い月が、いつもと変わらぬ夜だと主張していた。
「無駄だ鎬把」
足が止まる。背後から嘲るような声がした。「もう遅い」
その冷たい響きが若者を振り返らせた。
上がり口に立つ桂丸と視線がぶつかる。互いが互いにむけて刃で斬りかかるような、そんな視線だった。
眉間を寄せ、鎬把は屋敷に引き返す。汚れた足のまま板間に上がると、侍女が手拭いを差し出すのも無視して桂丸の襟元を和し掴み、そのまま壁に叩きつけた。
桂丸がうっ、と息を詰まらせたが構うものか。
鎬把が異変に気付いたのは外から戻って暫く経ってからだった。
早々に酒気漂う父に捕まった鎬把は、男同士の話をするからと近くの小部屋に連れ込まれ、近況から好いた女子はいないのかという事までしつこく訊かれていた。
当然、御代がその手を汚し、当主が没した日にするような話ではない。
そのうち堪えられなくなって部屋を飛び出した鎬把は、真っ先に子供の姿を探した。隆茉は別棟にいる縁者たちに挨拶に行っているだろうし、女たちは膳の支度で忙しい。
寂しさと不安で押し潰されている童を慰めてやれるのは己しかいないのだ。
しかし子供の姿が無い。隆茉が弟も連れて行ったのかと思い、することもなくなり客間を一つ陣取って寝転んでいると、障子の向こうで声がした。
侍女を叱りつける家老の声に、何事かと顔を覗かせる。鎬把に気付いた浅桐家の爺やは、さっと口を閉ざした。
何でもないと取り繕ったが怪しい。他家の事なので口を出すべきではないとは思いつつ、訳を聞くものの逆にたしなめられる始末。
引き退ろうとした鎬把に、叱られていた侍女が妙な客が来ているのだと声を上げた。
表まで隆茉を迎えにきた侍女だった。
「今老公様と若君が話をしております」
家老が遮ろうとしたが既に遅い。鎬把は踵を返して駆け出していた。
嫌な感じがした。
鎬把は隆茉が桂丸として認められる為にしてきた数々の努力を知っている。どんな霞みもあってはならない、という気迫を肌で感じ続けてきた。
しかしそれにはどうしてもままならない事が二つあった。
長子だが女である隆茉。「桂丸」の息子として産まれてきた幼い尉濂。
これは隆茉にとって大変な関門だ。
もし今日、隆茉の髪が正しく変じたとしても。尉濂に全くその気が無くとも。
景実公亡き今、周囲が黙ってはいまい。
鎬把はめぼしい客間を当たったが空振りに終わり、壁に手を付き息を調えた。
自分の妄想など、杞憂に終れば良い。
しかし漸く辿り着いた先に、子供と客の姿は無い。居たのは見知った三つの顔。戸を開け放ち、見送るように外を向いていた。
激情に委せて隆茉を壁に叩きつけた鎬把は、自分を叱る祖父に怒鳴り返し、より一層力を入れて隆茉を壁に押し付けた。
「言え! 尉濂を何処にやった!!」
隆茉は苦しげに顔を歪めるだけで答えない。
「皆の前で弟を見知りおいてくれと言った、あれは何だ!? 言っている事とやっている事がまるで噛み合っていないじゃないか。桂丸は郷の者を護のが務めだろうが! それを、あんな童を排除して……―――弟を庇護するよりも、そんなに己が桂丸でいるほうが大事か!!」
言いながらも、鎬把には分かっていた。大事なのだ。隆茉も直ぐに肯定する。しかしそんな言葉を聞きたくはなかった。
「!」
隆茉の手が、鎬把の腕を掴んでいた。長い爪が食い込む。
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