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己を捨てた日

 裏口では侍女が一同を出迎えた。男に頭を下げる。
 侍女は桂丸に袱紗包みを渡すと、手を伸ばして子供を捕まえる。暴れる子供を押さえ付けその小さな背中に小さな荷をくくりつけていた。
 桂丸は、受け取った包みを男に向かって差し出した。
「直生様に宜しくお伝え下さい。ご慈愛下さい、と」
「………。確かにお預かりいたしました」
 恭しく受取りながらも、口の端をちょっと吊り上げた笑ったような困ったような表情を桂丸に向ける。当然そんな顔をされた桂丸は訝しんだ。
「いえ…。その……、あなたは当家の総領と昵懇の間柄と聞いておりますので、若に言伝などは無いのかと……」
 桂丸は全く表情を動かさなかった。ただじっと見据えられ、男の方がたじろいだ。
「…………………失礼いたしました」
「いえ」
 冷や汗の出る思いだ。
 桂丸、そして絃衛門に頭を下げ、男は草履をつっかけた。先程まで畑に出ていたのではと思うような擦り切れた汚い草履である。
 その隣には、丁寧に編まれた小さな草履が履き主を待っている。
「姉上!」
 その小さな主はようやく侍女の手から逃れ、必死で姉に縋りついた。
「いやです姉上っ、僕はどこにも行きたくない!ずっと姉上といっしょに……、姉上のお手伝いをします!いい子でいるから、……だから姉上」
 振り払われた。
 尉濂がそう感じた瞬間、すぐ近くでぱんっ、と小気味良い音が鳴った。
 その場にいた皆が息を呑む。侍女が小さく桂丸を諫めた。
 じわりじわりと左の頬が痛みだす。尉濂はそれでやっと、叩かれたのだと分かった。
 打たれた頬を押さえることも出来ず、ただ呆然と姉を見上げた。
『この母と、約束出来ますね?尉濂』
 数刻前に交した母との最後の約束。絶対に守るようにと言われ、指切りをし、尉濂は喜んでそれに頷いたのだ。
『これからは姉上の言葉に従うのですよ』
 細やかながら、桂丸を継いだ姉の役に立つ事ができたら嬉しい。父母との別れは悲しいけれど、姉と一緒なら。
 そう思っていたのに。
「何をしている」
 子供に抱きつかれて乱れた着物を手早く直すと、桂丸は尉濂に向き直り視線だけをすっと降ろした。子供が身をすくませる。
「早う行け」
 尉濂はぎゅっと袴を握り締めた。声を上げまいと引き結んだ口は震え、大きな眼からはぼろぼろと涙が溢れる。
 草履を脱いで再び上がってきた男が、子供に手を伸ばそうとする侍女を制してやんわりと小さな背中を押した。
「さあ、尉濂どの」
 どんな抵抗も無駄だと悟ったのか、尉濂は促されるままに草履を履いた。姉の顔など見れない。ここで顔を上げてしまったら、隆茉の目に自分の姿など映っていないのが分かってしまう。
 がらりと板戸が引かれた。その向こうには平素ならば常闇とひらりと吹き込んでくる夜の風の世界の筈であったが、今ばかりはそうではなかった。地面から冷気を孕んだ白い靄が立ち込め、一寸先も見通せない。 靄はぞろりと這入ってくると、足や体を絡めるように広がっていく。侍女が息を呑んだ。
 靄の奥で何かが光っている。変色した桂丸の髪よりも更に明るい光。五代目の色に近い色。
 光の先で獣が鳴いてた。
「見えますかな? あの光に向かって歩くのですよ、尉濂どの」
 子供の隣に屈んで赤い光を指差し、男は更に続けた。
「あの光だけを見るのです。視線を外してはなりませんよ? では参ろう。大きく息を吸って」
 男は小さな手を握った。
 か弱い手だ。
 何を掴むには、あまりにも小さすぎる。零れ落ち、かすめさり、届くこともなく。
「どうぞ」
 桂丸が二人の背中に呼ばわった。
 既に靄は男の肩まで届いている。尉濂が振り返ったのが分かった。
「どうぞ、よろしゅう」
 男がひらりと手を上げる。

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あきゅろす。
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