襲名
骸の手首から滴る血を泥色の液体の入った杯に落とす。
するとどんな不思議か、杯に注がれた酒は瞬く間に無色に変じた。
それを確認した女は、杯を持ったままそろりと立ち上がり、真一文字に口を閉ざして座っている次代の前で立ち止まった。
襖をすべて取り払って設えた大座敷には、郎党ほぼすべての者たちが顔をそろえている。こちらも誰一人として口を開かずすすり泣くこともせず、衣擦れの音さえない。
後ろに控えた多くの顔を見渡すと、女は膝を着き次代に杯を差し出した。
しかし次代はそれをじっと見つめるだけで、受け取ろうとしない。どうしたのかと顔をのぞくと、微かに頬が紅潮している。
「……隆茉」
すぐ脇に控えている翁たちにさえ聞こえない程の声で呼ばれ、次代は杯から視線を上げた。
母の優しげな笑顔とぶつかる。
次代はよりいっそう唇を引き結び、女から杯を受け取った。
手が震える。
今ここで、これを飲み下さなければならない。
次代が杯を受け取ったことで、女は元の席に戻り、他の者たち同様、次代の一挙一動を見ている。膝の上に揃えた掌からも、こちらを見つめる表情からも何の感情も見付けることは出来ない。無であり、静であった。
余りにつらい出来事に感情が動かなくなってしまったのか。或いは計りしれない程の覚悟で、嗚咽を堪えているのか。
女の膝のすぐ先には、未だ温もりを残した骸が横たえられている。昨日までの秋を切り取ったかの毛髪も、今はただただ寒々と降り積もった雪のようであった。
父のあの髪が、高い背が、逞しい胸板が、からからと笑う声が好きだった。
次代は何もかもすべて振り払うように頭を振ると、杯を一気に呷った。
思いがけない冷たさが咽に沁みる。微かに鉄の味がした。
母の顔が固くなる。
背後で人々が息を呑むのが分かった。
どっ
次代の掌から、杯が零れ落ちた。
姿勢はそのまま。
呷った、その形のまま、硬直しているように。
どっ
心の臟が脈打つたび
どっ
次代はその場に崩れ落ちた。
その途端、全身にぶわりと汗が噴き出す。
どっ
息が、うまく出来ない
熱い
どっ
「────っぁ」
突然胸を押さえて蹲った次代に、後ろで事の成り行きを見守っていたもの達の一部がざわめいた。そのほとんどは「襲名の儀」を知らない若いもの達だった。
「えぇい、静まれいぃ」
何事かと立ち上がりかけた若衆に、翁の一人が一喝する。
「大事ない。座らんか!」
「しかし……っ」
「口答えは赦さん! 黙って見ておれ!」
けれども次代の苦しみようは、そう言われて大人しく引き下がれるようなものではなかった。
段発的に発せられる呻き声は、まるで体に杭を打たれるように低く、肢体は大きく痙攣している。段末魔を上げて暴れ狂うよりも、こうして体をくの字に曲げて苦しまれると、見ている方は外から気休めを言うしかない。
唯一次代の顔を見られる位置に座っていた女も、腰が浮こうとするのを必死にに押さえ込んでいるようだった。
「誰一人触れてはならん! 我らに出来るのは最早待つことのみじゃ」
それから変化が起こるのに時間はかからなかった。
もがくあまりに畳に投げ出された美しい黒髪が、じわりじわりと奇妙な光沢を放ち始めたのだ。
はじめは庭から差し込む日の光の加減かと思われた。
しかし黒を赤く見せるほど、太陽は沈んでいない。寧ろ中天に白く輝いている。
年若い者たちは初めて見る光景に息を呑んでいたが、年かさの者たちはそろって目を皿のように見開いた。翁たちからも微かにどよめきが漏れる。
髪の色の変化に伴い、次代の呻き声は徐々に小さくなっていく。
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