夢守
「人を殺したいと思った事がある」
だから、こんな夢を見るのか………
絶叫と共に火村は飛び起きる。またあの夢だった。
荒い息、直前まで見ていた光景が感触がまだ残っているようでぎゅっと目を瞑り手を擦る。
呼吸が治まりかけた頃、ようやく周囲の異変に気付く。ここはいつもの自分の部屋ではない。ここは──
火村ははっと奥の部屋へ続くドアを振り返った。眠る前、もう少し仕事をすると言って友人がその中に消えたのを思い出し、血の気が退いた。
聞かれた
あの真っ赤な夢の残響を聞かれてしまった!
手には未だあの温く生々しい感触がこびりついている。一刻も早く洗い流したいが、それよりも彼への対応の方が先だ。
ゆらりと立ち上がり、火村は問題のドアの前にに立って中の気配を探る。物音はしない。
ドアの向こうでは友人が息を詰めてこのドアを凝視しているのだろうか。想像して、火村はぎゅっと眉間を寄せた。
何でもないのだと弁解しなくては。ノックしようと右手を持ち上げて火村はギクリと身を強張らせた。
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がった右手が、赤黒い何かでしとどに濡れていたのだ。
「──………」
手を顫わせたままきつく目を閉じて、幻覚だと念じる。鼓動を耳に聞きながら、幻覚だと繰り返す。
再び視界に入れた掌には、当然の如く濡れた跡などなかった。
深く息を吐いて、閉ざされたドアに向かってそっと声をかけた。
「……アリス……」
滑稽な程声が顫えている。
「アリス……」
無言の返答に、先程の想像が蘇った。眠った振りでもしてやり過ごそうとしているのか、それともドアの直ぐ向こう側に立って、自分と同じように気配を感じとろうとしているのか。
「…………アリス、入るぞ」
ノブを握るのを躊躇し、火村は腕を使ってドアを開けた。
室内は蛻の空だった。電気もついていない。
「………──」
暫し放心して、火村は大きく息を吐いた。そうだ、仕事をしているなら照明くらいつける。さすれば明かりも漏れていたろう。そんな事すら気付かなかった。
頭を振って踵を返す。兎に角手を洗いたかった。
洗面台に立ち、泡を流す。粗方落ちたところでハンドソープに手が伸びる。これで何度目か。
コンビニにでも行ったのだろうかとぼんやり思う。ここに来る前に玄関を覗いたが友人の靴は無かった。
何でもないのだと叫びたかった。何よりも自分の為に。なのに夢は、いつまでも追い掛けて来る。
あれから何年経った?
いい加減解放してくれ!
「火村? 起きてたんか」
「!!」
思わず身構えて、そこに立っている友人の姿に硬直する。
「あ……りす、コンビニか?」
「はは、腹へって」
ビール買ってきたと笑いながらリビングへ向かう背中に火村は安堵した。
あの様子では何も気付いていないだろう。よかったと独りごちながら、変な時間に物を食うなと言ってやった。
その男の寝顔を眺めながら、私は苦い思いを味わっていた。
洗面所で見た真っ青な顔、冷水に浸り過ぎて真っ赤になった手。
呑みすぎたなどと言っていたが、嘘である。
「………火村お前、また……」
彼を犯罪者狩りに駆り立てる原罪のような悪夢。お前は今夜も誰かの血溜りの中に居たのか。
深い渓谷の縁に立つ火村。私がどんなに声を張り上げても、彼は振り返らない。明後日の方向を見ながらも、渓の底に興味を向けているのをその背中が語っている。
「……お前の居場所は、俺の隣やないんか……」
繋ぎ止められない自分が情けなく、悔しかった。
どうしたら彼の悪夢は晴れるのだろう。答えの出ないまま、私は今夜番人のように彼の眠りを見守ろう。
缶ビールをぐびりと煽りカーテンを捲る。
月が綺麗だ。
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