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天網恢恢



 その瞬間、私は天啓を得た。
「そうや、本屋へ行こう」
 空しい独り言を吐き、財布を手にする。
 後ろは振り返らない。今の私には前しか見えないのだ。
 最寄り駅に駆け込み丁度口を開けていた電車に飛び乗る。
 ああ、そうだ。車内では携帯の電源は切らねば。
 真っ黒になった画面にほくそ笑む。これで連絡は取れない。私は自由だ。
 黄昏と共にこの身が闇へ溶けていく。何と素晴らしい想像だろう。地下から這い出た私は、死の渕にある太陽の光を全身で浴び高揚する。
 行きつけの本屋は時間帯のせいか学生客が多かった。しかし全く構わない。私は高校生と並んで雑誌を捲り、大学生に混じって小説を吟味した。
 本屋。何と幸せな場所だろう。こんなに沢山の本に囲まれた世界、桃源郷か。
 しかし次の瞬間、私の軽やかな足取りはぴたりと止まる。本棚の中に見覚えのある装丁、文字、そして私の───
 大きく呼吸をする。一体何のことだろう、私には全く見えない。
 さり気無く踵を返し、その棚から逃げ出した。


 戦利品を抱えて近くのファミレスで夕飯を摂っていると、見覚えのある学者風の男がレジの店員に話しかけている姿が目に飛び込んできた。そしてそれに続いて現れた若白髪頭に、私はとうとう喉を詰まらせた。
 ゲホゲホと咳き込み慌てて水を飲む。人心地ついて顔を上げたがレジの前の2人に気づいた様子はない。相変わらず白いジャケットのその男も少し離れたところで電話をしている。
 ふう。危ない危ない。しかし念のためにレジに背を向けるよう席を換えて座り直し、私は食事を再開した。しかし幾らも経たずしてまたもや食事は中断された。
「ようアリス」
 あろう事か、若白髪に白ジャケットの訳の分らない男が今しがたまで私が座っていたい席に腰を下したのだ。
「今日は片桐さんが来る日じゃなかったのか?原稿の催促に来るとか」
 突然現れて何を言うのかこの男は。私には全く身に覚えがない。
「もう駄目だ、落とす、って泣き言言いながらフィールドワークの同行を断られたのは確か昨日だった筈だが……流石有栖川大先生、無事脱稿したようで喜ばしい限りだ」
 目の前の男はにこりと笑って私の皿の上のポテトを掠め取った。
「おや有栖川さん、こんばんは」
 店員から話を聞き終わったのか、学者風の男がやって来た。そしてどういう訳か私の横に立つのだ。
 挟まれた!私の席は2辺を壁で塞がれているのだ。現れた2人の男は私の逃げ道を完全に塞いでしまった。
「今日はお忙しいと先生から伺っていましたが、終わったのでしたら今からでもいらっしゃいませんか?今回もまた有栖川さんのお力が是非とも必要な難事件でして」
「いえ……」
 私は目を逸らしながら力なくそう言うしか出来なかった。
 いらっしゃいませぇ。店員が新たな客を迎える。
 私はこの窮地をどう脱するかを考えるので精一杯だった。目の前の男は腹立たしい事にそれを楽しんでいるような顔だ。
「有栖川さん!!」
 突然振って沸いたその声に、私の体は稲妻が落ちたように顫え上がった。そちらを見ることは出来ない。
「火村先生、ご連絡有難うございます」
 第3の男はぜぇぜぇ言いながら私の腕をガシリと掴む。
「何枚書いたんですか?何行?何文字?」
 吊るし上げるように襟を掴まれた私は阿修羅の如き相棒の姿に慄く。
「……や、……それが……」
 相棒はそれだけで事態を把握したようだ。私を引きずり立たせると財布を奪い取って会計へ向かう。
 私はぶるぶる顫えたまま隣の男に救いを求めた。
「……鮫山さん、保護してもらえませんか……」
 しかし敏腕警部補は私を絞首刑台へ突き出したのだ。
「次回作楽しみにしていますね」
 私は追い詰められた犯人の境地に到達した。


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あきゅろす。
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