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探偵助手の穏やかならざる休日



 脱稿明け、栄養バランスの行き届いた食事を求めて火村邸に押し掛けていた私は、忘れ物を届けてくれという電話でばあちゃんや猫たちとの蜜月を邪魔された。
 火村センセでもうっかりすることあるんやねとせせら笑いながら彼の部屋を覗くと、確かにそれらしい封筒がある。
『今すぐ持って来てくれ』
 英都大学からここまでは車で幾らもかからない。忙しいのかと問うと連続して講義が入っていて抜けられないのだと言う。いつも軽々と休講にしていたツケを払っている真っ最中なのだ。
「分かった。散歩がてら持ってってやる」
 私は通話を切って封筒を抱えた。久しぶりに母校を覗くのも良いだろう。篠宮のばあちゃんに見送られ、軽い足取りで下宿を出た。



「有栖川さん?」
 校内に入った所で呼び止められた。振り返ると以前ある事件で知り合った火村の生徒、貴島朱美が立っていた。彼女はやっぱりと呟いてお久しぶりですと会釈する。
「その節は本当にお世話になりました」
 彼女にそう言われるだけの事を私が出来た訳ではない。いやいや、と手を振ってそれに応えた。
「その後どうですか?」
「はい、以前程では。まだ1人では見られないんですけど」
 それでも随分な進歩だ。長年彼女を苦しめていた「オレンジ色恐怖症」。事件解決を機に彼女はこれに立ち向かっている。
「今日はどうなさったんですか?──あ、火村先生に?」
 忘れ物を届けに来たのだと例の封筒を掲げてみせた。
「今日はたまたま私が居たから良かったけど、普段はどうしてるんやら……」
 あのオンボロベンツをぶっ飛ばしているのだろうか。切符を切られでもしたら府警の柳井警部に申し訳ない。
 朱美がくすりと笑う。どうしたのかと問うと「火村先生でも忘れ物するんだと思って」とまた笑う。確かに、彼はそういうところは厳しい男だ。
 チャイムが鳴り、校内は俄に活気づく。授業が終わったのか。
 朱美は次の火村の授業を取っているらしく渡しておこうかと言ってくれた。ここから研究棟に行くのは確かに面倒なので、私は有り難くその提案を受け入れた。
「アリス!」
 では、と朱美と別れようとしたところでバリトンが降ってくる。見れば問題の准教授が2段飛ばしで階段を駆け降りてくるところだった。
 何事かと学生が数名振り返る。しかし敵はそんな事はお構いなしで突進するようにやって来た。
「……今彼女に頼んだとこや」
 朱美の手から火村に封筒が渡る。火村は礼を言って素早く中身を確認し、胸を撫で下ろす。
 窮地を脱した准教授はいつもの調子を取り戻し、無駄口を叩く。
「おっさんが女子大生をナンパしてんじゃねえよ。こっちの品位まで疑われる」
 突然何を言い出すのかと思えば全くの濡衣である。違うんですと朱美が経緯を説明しても、「へぇ」と言うばかりだ。聞いているのか。
「ところでアリス、どうせ暇なんだからこれを届けてくれないか」
 何という言い草であろうか。火村は別の封筒を私に寄越した。そこには
「は!? 兵庫県警!?」
 A4版の封筒には下に兵庫県警と印刷されている他は何もない。中は書類のようだ。つまりこの男は私に今から兵庫まで行けと言うのか。
「忙しいんだ。頼むよ助手さん」
 何が「助手さん」か。
「と言うかお前、さっきの電話授業中にかけてきたんか」
 封筒を睨みながら問う。叩き上げ刑事長の渋面が浮かんだ。
「ちゃんと廊下に出たさ」
 そういう問題ではない。
 朱美も苦笑している。
「じゃあ樺田警部に宜しく言っておいてくれ」
「待て火村。誰も行くなんて……」
「晩飯作らねえぞ」
 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
 2人と別れた私は重い足取りで下宿に戻る。兵庫までの道中、刑事長と出会わぬよう私は切に祈った。

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あきゅろす。
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