「スーさん、ハンナちゃん、おやすみなさい。」
「ん、おやすみ」
「おやすみ、フィン」
僕が今住んでいるこの家には、僕の他に二人住んでいた。無口で無表情でちょっと(いや、すごく)顔が怖いスーさんと、人懐っこくて陽気で照れ屋で、ちょっと寂しがり屋のハンナちゃん。この家ではいつも、僕が一番先に眠りにつく。
(なんだろう、ちょっと悲しい感じがする……)
僕はベッドの中で、暗くてよく見えない天井を見詰めながら考えていた。
ターさんの家を出て、スーさんやハンナちゃんと暮らすようになってから、特別な意味もなく交わしてきた挨拶。今夜のそれは、なぜか僕の胸をちくりと痛ませた。
「何なんだろうなあ……」
そう呟いたとき、とんとんと微かにノックする音が聞こえた。不思議な寂しさもさることながら、何だろうと思いつつ、ドアの向こうへ声をかける。
「起こした?」
「ううん、ちょっと考えごとをしていたよ」
開いたドアから入る光が眩しくて、無意識に目が細くなる。
スーさんのおさがりのぶかぶかな寝間着(手直ししてあるけど、まだ大きい)のハンナちゃんが、光の中で枕を抱えて佇んでいた。
「……おいで。」
僕はベッドの片側に寄って、空けた方の掛け布団を捲る。こうするとハンナちゃんは、嬉しそうにそこに入ってくるのだ。
僕らは特別だけど、普通の人と大して変わらない。男と女という性の意識もちゃんと備わっている。ただ、僕らの間にそういう雰囲気は一切ない。
「今日は何の話をしようか」
「トナカイを数えようよ」
「いいけど、飽きちゃわない?」
ハンナちゃんは時折こうして枕持参で僕の部屋を訪ねてくる。だいきらいなクモを見つけてしまったとき、悪い夢を見たとき、スーさんと喧嘩していじけているとき。僕ももう戸惑わなくなった。
僕らは男女というよりは、親類のような性の絡まない関係だった。
「眠れないね」
「でも、寝ないと。明日辛いよ?」
ゆっくり頭を撫でると、ハンナちゃんはぎゅっと僕に抱きついた。
「ねえフィン、私に何か隠してる?」
「え、何のこと?」
ハンナちゃんは腕の力を強くする。まるで、どこかへ行く僕を引き留めるように。
それは僕に、さっきの変な寂しさを思い出させた。どこから湧いてくるのか分からない感情だ。
寂しさに釣られて、初めてハンナちゃんと眠った日を思い出した。懐かしいあの戸惑いの記憶に、僕の胸は水の下の厚くて柔らかい氷が軋むような音を立てた。
「特に何も無いなら、それでいいんだけど」
僕がしらばっくれるからか、いじけた子供のような口調でそう言うと彼女は、様々な感情が犇めき合う僕の胸に顔をうずめた。
「急にどうしたの、ハンナちゃん」
「私はいつまでこうしてフィンに甘えられるのかなあ」
今夜の彼女はやけに幼く甘えたで、しかもおかしなことを言う。僕の胸の内といい、一体どうしたというのだろう。ハンナちゃんに訊いてみても、その決定的な答えは返って来なかった。
「僕はハンナちゃんが望む限り、ずっと応えてあげるつもりだけど?」
「ずっとかあ……」
「そう、ずうっとだよ」
やがて、胸の上から穏やかな寝息が聞こえてきた。ハンナちゃんが眠れたことを知った途端に眠くなり、僕もようやくゆっくりと目を閉じた。
明日も変わらず、心温かな一日が送れると信じて。
翌日、僕は無理矢理ロシアさんの家に連れて行かれた。
ああ。誰がこんな事態を予測しただろう。あの不思議な寂しさや懐かしさ、彼女の甘えは、きっとこのことを示していたのだ。
ああ、僕はもうあの家には帰れない。二人と「おやすみ」を交わすことも、あの子がベッドに入れてくれと部屋を訪ねてくることも、もう、ない。…………
「まさか君に嘘を吐く日が来るなんて、僕は思いもしなかったよ……ハンナちゃん……」
冷たいベッドより、君を思う
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