ハンナは困っていた。
もう、しばらく玄関から動けていない。
「ねえ……とりあえずちょっと進もうか?」
「やだ。」
さっきからずっと、この調子だ。
"放して"は、彼が経験上聞かないと分かっていたから、"歩こう"とか"進もう"という言葉を遣った。
抱き締めている腕を放して欲しい、とまでは言わない。せめて玄関から奥へ行きたいだけなのに、彼は何も聞かない。
「俺の気が済むまで離さね……」
ハンナは熱を出したノルウェーに栄養を付けさせるため、買い出しに一人で出掛けた。
たまたま買い出し先の店でスウェーデンと会い、少し世間話をして帰れば、これだ。
「だから、誰か来たら困るでしょ?こんなところで。」
「俺は困んねえ」
「ところが私は困るのよね」
ハンナが驚いたのは、「コワくて動かれね」と言って本当にその通りだったノルウェーが、玄関のドアを開けたらそこに佇んで待っていたことだった。
「俺にぎゅーってされんの嫌か?」
「嫌じゃない、けど恥ずかしいよ……耳元で吐息混じりに囁くのやめて」
ハンナは焦っていた。
買い出しを終えスウェーデンと別れた後、デンマークとも会い、ノルウェーの体調が悪いことを教えてしまったのだ。
「ぅわっ み、耳たぶ噛まないで!」
「甘噛みだ」
「ケガの心配じゃない!」
体調のことはスウェーデンにも伝えた。知られることが問題なのではない。
デンマークはあとで見舞いに来ると言った。ハンナの第六感に寄れば、そろそろ来るはずだ。
「おめ、顔真っ赤だぞ」
「近い近い近い!おでこ!」
「今更照れる距離じゃねえべ?」
「私は照れるから」
「おめはいつまで経ってもウブだな」
「うるさい。あと頬つつかないで。撫でるのもやめわわわわ」
早く、早くと思っても、全くノルウェーはハンナの思うとおりに動かない。
いつも振り回されている分、今日くらい言うことを聞いてくれてもいいじゃないか。そう思うハンナだ。
「……大人しく寝ないと熱下がらないよ」
「ハンナがキスしてくれたら戻ってもええど」
冗談か、本気か。あるいはその両方か。
実はノルウェーほどではないものの体調が良くはないハンナ。これ以上粘るのは辛かった。
「……ちゃんとベッドに戻るのね?」
そう言うと、ノルウェーは微かに微笑んだ。極度にシャイなハンナが素面で自らキスしてくれるのか。面白い。とでも言いたげな唇だ。
やってやろうじゃない、それでこの場が終わるなら。ハンナはノルウェーの腕の中で精一杯背伸びをした。
透き通るような白、滑らかな肌に甘いぬくもりの感触。
「―――……頬?」
「え」
間違えた訳ではない。キスはどこにしてもキス。ハンナはそう思っていた。
しかし、ノルウェーは違った。「するところが違う」と拗ねるのだ。ハンナは頬でも十分勇気を振り絞るほどだったのに。
「口にとは言ってなかったよ」
「して」
「……あー、もう………」
ただ、照れくさいというだけ。
ハンナはそっと深呼吸。空気を吸って、呆れのようなため息を吐く。
「目、閉じて」
「………ん」
今度こそ大人しくベッドに帰してやる……と半ば自棄で、もう一度背伸びをした。そして唇と唇が触れ合う、そんな瞬間だった。
何の予兆もなく、バン!とドアが開く。
「大親友!体だいじけ?!」
ハンナの体が大きく跳ねる。そして、底抜けに明るい声が響くと同時に、ノルウェーの腕から抜け出してしまった。
「い、いらっしゃいデンマーク……早かったね」
「おう!」
柔らかな感触を楽しむにはあと1秒、あるいはそれ以下の時間が必要だった。
どうしてこの男は、たったの1秒が待てないのだろうか。
「おめんとこの嫁から聞いたぞー?熱、なかなか下がんねえんだ、って」
「そうなんだよねー。ほらノルウェー、デンマークもお見舞いに来てくれたことだし中入ろ、ねっ?」
ハンナはほのかに赤らんだ笑顔でデンマークを迎えたが、ノルウェーは無言だった。しかも、顔に暗い陰を落としつつ、微かにわなわなと震えている。
「しっかしハンナよお、ノルが好きだからって玄関でキスたあ気い短すぎだっぺよ。ここじゃ寒くてノルの体にも障るべ」
「………は?」
それまでノルウェーの機嫌を見ながら笑顔を取り繕っていたハンナだったが、我慢しきれずヒクリと口の端をひきつらせた。
しかしデンマークはそんな些細なサインなど気付かない。勿論、ハンナの笑顔のひきつりが最終警告に当たるものだということも。
「はあ、こんだけアツアツなとこさ見せつけられたら羨ましくなんなあ」
「自慢の女房だからな」
「あーあー俺も嫁さん欲しいなぁ!
ハンナ、ノルやめて俺んとこさ来ね?」
「えーと、それはどういった意味でしょう」
「もちろん嫁っ……………ぐえ!!」
デンマークの不運。それは、ノルウェー宅を訪れたタイミング。そしてネクタイをしてきたことだった。
「ハンナに触んなこの」
最早お馴染みとなりつつあるが、一応説明すると、ノルウェーがデンマークのネクタイを引っ張り首を締めていた。
「死ぬほどマーガリン口にぶっこんだ後、岩にくくりつけてじっくり海に沈めんぞ」
「ギブ!ギブ!!」
「ノルウェー、冗談だから!たまにはデンマークにも冗談くらい言わせてあげて!」
本当は寝ていたいほど具合は悪いはずなのだが、ネクタイを引く力はいつもと変わりない。むしろいつもより本気のノルウェーである。
「……寝込んでたんじゃないの、ノーレ」
「あっ、アイスー!来てくれたの?」
「ダンから聞いた。付きっきりじゃハンナが死んじゃうと思って」
「ありがと」
デンマークの横を抜けてやって来たのは、北欧の弟・アイスランド。訪れて早々、誰に何を言われずともそれとなく状況を把握して呆れ顔をした。
「早速だけどデンマーク助けてきてくれる?」
「え、いみわかんない」
ハンナ絡みの際のノルウェーは面倒くさく、誰にも制御できない。
それを「ちょっとそこのリコリスちょうだい」くらいのノリで言うのだから、ハンナもハンナでおかしい。とアイスランドは常々考えていた。
「はあ……。そろそろどうにかしてよ、ノーレのすぐ妬く癖」
「私には無理」
「即答しないで。……ハンナはノーレだけのじゃないのに。困るよ」
「―――ふふ」
「なに笑ってんの、ハンナ」
(私が初めて家出したあの日、ノルウェーは初めて胸の内を語ってくれた。切ない表情をする彼にしたあのキスの感触は、今でもよく覚えている。)
「ノルウェー、可愛い弟も来たしおやつ食べよ。食べる元気ある?」
「……ある」
(ノルウェーはずっとずっと昔から私を好いていてくれた。そして、今はみんなが困るくらいに愛してくれている。)
「止められるんじゃん嘘吐き……。あ、ダン大丈夫?」
「はー……死ぬかと思った」
「ちっ」
「ノルウェー!もう終わり終わり!」
(ノルウェーがまっすぐ私を見ていてくれる分、少しずつになると思うけど、彼を愛し気持ちを返して行こう。彼の深い海のような瞳を見つめ返すんだ。)
「モイ!何か賑やかだね?
ノル君風邪だって聞いたけど大丈夫?」
「……フィン、スヴェーリエ」
(いつ……否、返しきれるかどうかさえ分からないけれど、もしもそのときが来たなら、今度は私が彼を鬱陶しいくらいに愛そうと思う。)
「あらら、皆来てくれたの?嬉しいけど……おやつ足りるかなあこれ」
「あんこはいらねえって」
「いるっつの!!ノルおめえ、肩に手ぇ置いたくらいでしつこすぎだっぺよ!」
「……ノル、風邪はええのけ」
「ハンナが心配で倒れてらんねえ」
北欧大集合!
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