1 -Playing in the brute's cage- 吐き気がしそうな香水の臭い。 媚を含んだ耳障りな甘い声。 纏わりつく柔らかな腕。 全てが、疎ましかった。 「……何、笑ってんの」 「あたしね、凄く嬉しいんだ…シンジがこうやって、あたしを誘ってくれて」 問えば、何も知らない莫迦な女はそう答えた。 恰も所有物であるかのように俺の腕を絡め取り、柔らかな胸を押し付けてくる。 下着を付けていないのか、腕が肉の合間に埋まる感覚に、吐き気がする。 嗚呼、最初はこの躰目的で近付いた筈だったのに、今となってはそれにさえも何ら魅力を感じない。 冷え切っていく脳でその事実を再確認すればする程、胸ポケットに潜ませた狼の牙の重みが心地よく躰に馴染んでいった。 早く、この不快極まりない愚の存在を、切り刻みたい。 俺の中で膨れ上がる欲望は、留まる事を知らなかった。 早く、ハヤく、ハヤク。 俺は、本当に久しく心の奥底から欲情していた。 「…シャワー、浴びてこい」 「ふふっ…シンジったら。わかった、覗いちゃ駄目だからね?」 照れたように頬を染める女の、その些細な仕草にさえも苛々が募る。 バスルームへと吸い込まれていった背中は、此から己の身に起こる事態等予期してすらいないのだろう。 刻一刻と迫る裁きの瞬間。 時計の秒針が時を刻む音に合わせ、俺の鼓動も高鳴っていく。 やがてタイルを打つ水音が止まり、静寂が訪れた時、俺は腰掛けていたベッドからゆっくりと立ち上がった。 ナイフを取り出し、邪魔な衣服を脱ぎ捨てる。 素肌に触れた空気の冷たさが、全ての感覚を研ぎ澄ませていった。 バスルームへと真っ直ぐ歩みを進め、躊躇う事無くドアノブを掴み、扉を開け放つ。 水蒸気で満たされた白い箱の中で、女は驚いたように俺を振り返った。 「どうしたのシ──…」 全てを紡ぎ終える前に、俺はナイフを女の腹部へと突き立てた。 ぶつ、と、太い紐を切ったような手応え。 ギラギラと貪欲に輝く刃先は、吸い込まれるように白い肌に飲まれていく。 何か固い物にぶち当たったので、再びナイフを抜き、今度は女の心臓目掛けて突き刺す。 抑えを無くした腹部からは、蛇口を捻ったように赤い液体が噴出した。 躰中を濡らしていく鮮血のシャワーは、まるで雨が大地に恩恵を与えるように、俺を人とは遠い存在へと進化させ、昇ぶらせていく。 それは、絶頂にも酷似していた。 俺の分身は、確かに快楽を得、反応を示していた。 性交の時のように、最奥まで捻じ込んでは、引き抜く。 何度も、何度も、何度も、何度も、何ドも、ナんドも、ナンドモ、ナンドモ。 その度に飛び散る紅は、醜いこの肉の塊から生まれ出た物とは思えぬ程美しかった。 とうに絶命した女は、余りの痛みに眼球を反転させ、ぽかりと口を開けていた。 白い肌や艶やかな髪には肉片や血液が飛び散り、まるで女をクリスマスツリーのように鮮やかに飾り立てていた。 その時初めて、俺はこの女が美しかったことを知った。 やがて、女の体は、思い出したようにゆっくりと傾き、湯の張られたバスタブの中へと飛び込んだ。 途端、透明だった湯は、葡萄酒へと姿を変えた。 立ち上る甘く錆びたフレーバーは、どんな美酒よりも馨しい。 その中でゆらゆらと揺れる女の白い四肢と髪が、滑稽だった。 俺は女の体を仰向けに寝かせ、頭を縁の部分へと立て掛けると、自分の体に纏わりついた穢れをシャワーで洗い流した。 見境を知らない排水溝は、泡も、血も、肉も、全てを飲み干していく。 俺は女が持ち込んでいたタオルで適当に体を拭うと、一度バスルームから出て、部屋に置いてある荷物の中から、赤いシルクを取り出した。 生前、女にくれてやったドレスを切り裂いた、その切れ端。 此が、最後の仕上げ(デコレーション)だ。 再びバスルームに戻った俺は、柩の中の俺の作品の頭に、シルクを巻いてやる。 赤い葡萄酒の海に沈む、血みどろの赤頭巾。 それは、今まで俺が見てきたどんな童話よりも残酷で、美しかった。 「……っく、くくくくく…あはははははははははははははは!!!!!!!」 あれだけ煩わしかった物が、こんなにも簡単に切り離せるなんて。 やはり、俺以外の人間等皆、莫迦な生き物だ。 醒めやらぬ恍惚に酔いながら、白いシーツに身を沈める。 掌の中の二つの鍵が、かちゃりと鳴った。 誰の物でもない、俺一人の為に用意された部屋。 窓から差し込む浅い月明かりに照らされた其処は、女の部屋とは対照的に仄暗い青に満たされていた。 目蓋の裏に焼き付いた製作の工程。 完成された神の造形物。 俺は造り上げたのだ、醜い肉の塊から、至極の美を。 愉悦に歪む口元。 俺は、此の世界で最も尊い存在だった。 不意に静寂を破り、喧騒が耳に届く。 至福に包まれ微睡んでいた俺は、苛立ちながらもベッドから躰を起こした。 時計を見れば、時間は丁度六時半を回った所だ。 …随分と、予定より早い晩餐のようだ。 精々発見は夕食時である七時半前後だと踏んでいたのに、どうやら、相当勘が働く男が居たらしい。 耳を澄ませれば、男が宿主に鍵を要求しているのが聞き取れた。 この調子ならば、見つかる迄後4、5分と言った所か。 しかし無論、その程度の誤算等大した問題ではない。 俺はガラス戸を開けると、軽々と窓枠を乗り越えた。 夏特有のむわりとした生温かい空気が、じっとりと躰を包み込む。 未だ顔を出したばかりの月が、木々の間で見え隠れした。 早い所、目的を果たして快適な室内に戻りたいものだ。 少しばかり歩いて辿り着いた少し広めの駐車場には、宿泊客の車が三、四台、疎らに停められていた。 俺はその内の一台へと歩みを進める。 見覚えのあるパステルカラーの丸みを帯びた車体…俺が、先日女にくれてやった物だ。 緩やかな月光を、金属が冷たく撥ね返している。 俺は迷いもなく車体の下に躰を滑り込ませると、ポケットから取り出した錐を思い切りタンクに打ち込んだ。 堅い感触に、手がびりびりと痺れる。 引き抜けば、鈍色の鉄板からは橙色の液体が零れ落ちた。 力任せに、何度も執拗に動力部を傷付けていく。 降り注ぐガソリンの滴が、俺の衣服を汚していく。 独特の胸が焼けるような臭いに、時折眩暈がした。 俺はもう一度ポケットに手を突っ込むと、其処から慎重にフィルムケースを取り出し、金属の間に押し込む。 この小さなケースの中には、マニアから分捕った簡易爆弾が詰まっている。 一度の爆発では不十分かも知れないが、流石に連続して巻き上がった炎から逃れる術はないだろう。 脳裏に、炎の中で踊り狂う人影が思い浮かぶ。 かちり、と、何かに引っ掛ったような手応えを確かめると、俺は車の下からずるずると這い出た。 頬に纏わりついた汗と油を袖で拭いながら、俺は笑みを浮かべる。 此で手筈は整った。 後は、全て直に──… 「ほう、今度は鉄の柩の火葬ですか。此は実に興味深い」 唐突に背後から飛んできた男の声に、俺は硬直した。 揶揄を含んだその言葉に、苛立つ余裕はなかった。 今、この男は何と言った?今度は?火葬? まさかもう計画を見抜かれたとでも謂うのか。 一瞬で、からりと口内が渇く。 馬鹿な、この俺が、こんな所でヘマを?有り得ない。 別段、囚われる事を怖れている訳ではない、囚われたくなければ、逃げればいいだけだ。 だが、後少しで完全な形となる其れを邪魔立てされるのは、気に入らない。 …そう、未だだ、未だ終わって等いない。 握り締めた錐が、ぎりりと呻く。 真実を語るつもりなら、黙らせる。 覚悟を決めゆっくりと振り返った俺は、しかし再び完全に静止した。 ──…死神。 不意にそんな単語が脳裏を過ぎった。 月影の下青く翳りを帯びたその男は、極端に露出の少ない黒衣を纏い、長い白髪をゆらゆらと風に靡かせていた。 前髪の間から覗く三日月のように歪んだ闇色の瞳が、俺を真っ直ぐに見ている。 ぞわりと、肌が粟立つ。 かたかたと、膝が笑う。 信じ難い事に、俺はこの男に恐怖を覚えていた。 「今晩和、貪欲な黒狼。作品造りは捗っておられますか?」 嗤いながら、男が歩み寄って来る。 アスファルトに縫い止められた両足は、逃亡を許してはくれない。 今まで気味が悪い位に沈黙し続けていた木々が、急に忙しくざわざわと騒ぎ立てた。 骨のような白く筋張った指。 其れが油で汚れた俺の手に触れた瞬間、余りの冷たさに思わず小さく悲鳴が洩れた。 「貴方に、此を」 そう言い終わるや否や、男は俺の掌中に何かを握らせた。 かさりと乾いた感触。 見れば、掌には小さく折り畳まれた紙が収まっていた。 一歩後退り、不敵な笑みを浮かべた死神は、何をする訳でもなく、只愉しげに此方を見ている。 此を見ろ、と謂う事か。 男の様子を窺いつつ、俺は慎重に紙を広げる。 其処には、見覚えのある紅で、得体の知れない詩が記されていた。 途端、俺の脳内に、一月前の記憶が鮮明に蘇る。 郵便受けから不意に舞い落ちた、差出人不明の一枚の書簡。 拾い上げた俺の鼻腔を掠めた、仄かな血の薫り。 其処に書かれていたのは、俺が今迄募らせてきた現世への謂いようのない嫌悪と絶望と、其の打開策。 足りなかったパズルのピースを埋めた、神からの信書。 …まさか、この男がそうだと謂うのか。 死神は嗤い、闇色の双眸に俺を囚える。 「貴方に、一つ警告をしに来ました」 「……何…?」 「貴方が誰を殺めようと私には関係ないのです。しかし、呉々も私のアリスには手を出さないで頂きたい」 謳うように告げた男の瞳は、狂気と殺意に満ちている。 恐らく此の警告は、戯言等ではない。 本能的な危機感に、冷たい汗が背中を伝う。 間違いない、こいつは俺すらも越えた決して誰も届かぬ領域に居る男だ。 畏怖すべき狂者か、崇拝すべき尊者か。 俺は今、神と対峙している。 だが、同時に、俺はその唯一神の謂う『アリス』の存在に興味を抱いていた。 此程の人物が執着する人間、果たして其れは。 「<真実の探求者(アリス)>は必ず、迷いながらも貴方へと辿り着く。其の前に逃げるか、其の儘囚われるか。其れは貴方の自由です──…然し彼は、私の獲物だ」 捕食者の表情で、男は言い切った。 人間の皮を被った、猛き獣。 飢えた獣に見境など存在はしない。 其れは俺自身がそうである以上、誰よりもよく理解していた。 「もう一度謂いましょう。呉々も、アリスには手を出さぬよう」 不意に強い風に呑まれ、思わず眼を綴じる。 轟々と、嘲笑うかのように、世界が鳴る。 再び押し上げた瞼の下に、死神の姿はなかった。 再び窓から部屋に戻った俺は、素知らぬ顔で廊下へと繰り出した。 駐車場で過ごした時間は酷く長かったように感じたが、未だ奥の部屋の前が賑やかな事からして、精々20分程度だったのだろう。 殺人の発生で制御を失った愚者達は、未だどうする事も出来ずに無能に騒ぎ立てているようだ。 パニックと謂う状態は、事を起こすには最適な状況だ。 俺は悠々とリビングへ向かい電話線を切ると、テーブルの上に神託書を添えた。 見つけるのは誰でも構わない、まさか隠すような真似をする馬鹿はいない筈だ。 怪奇的な文章は、きっと更に混乱を極めてくれるだろう。 そして、恐らく、その時にこそ<神の寵愛者(アリス)>は俺の元を訪れる。 来訪者が在ると謂うのに、逃げる訳がない、逃げる必要もないのだから。 今迄地に墜とした愚者の数だけ付けたピアスが、耳元で涼しげな旋律を奏でる。 此の血と肉の祭典が終焉を迎えたら、新たに開くべき奈落の穴は、四つ──… その時こそ、俺は神を超える。 Y県ぺンション連続殺人犯(本名不明)、Y県警への護送中、付き添っていた警官二名を殺害の末逃亡。Y県警は現在、自らを神児(シンジ)と称したその男の行方を、全力を上げて追っている──… 『政宗ッ!聞いたか今朝のニュース!!』 「──…嗚呼、何処のchannelでもひっきりなしに放送してやがるからな」 延々と連続殺人犯の逃亡経路やその行方を論議し続けているブラウン管を睨みつけながら、政宗は低く呻く。 電話越しに、元親が半ば当たり散らすように部下に指示を飛ばしているのが聞こえた。 狩られぬ獣は、やはり蛮行を繰り返すのか。 死神が綴った、悪が罰せられる事のないもう一つの赤頭巾。 其れは獣の甘い罠にかかった愚者を戒める為の物語。 童話が必ず、ハッピーエンドだとは限らない。 下されるべき裁きの手を緩めてしまったのは間違いだったのかも知れない。 この先狂った獣が何を仕出かすのかはわからなくとも、あの時の審判を止めなければ、少なくとも二人の警官の命が失われる事はなかった。 彼等を殺してしまったのは、他ならぬ自分なのだ。 「……ッ」 『お、おい、どうした!!』 「I'm OK...ちょっと眩暈がしただけだ…」 疼く右目を抑えながら、政宗は取り落とした携帯電話を拾い直す。 物音を聞きつけてやって来た助手に苦い笑みを浮かべながら、彼は大層驚いた様子の悪友に電話越しに無事を伝えた。 込み上げる震えに気付かれぬよう、両脚に力を入れる。 何処か痛ましいその横顔を、小十郎は只見つめる事しか出来なかった。 To the next story... |