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偶像
 こめかみに軽く押し付けられる唇がくすぐったくて、霧江は体をよじりながら笑みを漏らした。目の前の男は心底楽しそうに、霧江の体中に恭しくキスを落とし、甘ったるい台詞を吐きつつ、遠慮する素振りもなく霧江の柔らかな肌に触れた。ここが、大学の講堂だということを忘れているかのように、二人は仲睦まじく……。
 もうすぐ、私はこの人のすべてを手に入れる。
 男の肩に顔を埋めながら、須磨寺霧江はほくそ笑む。男―――右代宮留弗夫は、霧江の大学の同期だ。絶えず女の噂がまとわりつくほど派手で女好き、加えて有名な財閥の御曹司だというのだから、これほどまでに恵まれた環境の人間はいないだろう。高校時代からその片鱗を見せ始め、入学して間もなく同期の中でもリーダーのような存在にのし上がっていった留弗夫の、そのカリスマ性は目を見張るものがあった。それは霧江も例外ではなく、気が付けばいつの間にか留弗夫に心を奪われてしまっていた。
 最初は顔見知り程度の関係から。それすらも随分と大変だった。それから、彼の───いわゆる“取り巻き”へ。頭も尻も軽そうな、薄っぺらい女と一緒にされるのは苦痛だったが、逆にその所為か、留弗夫はすぐに霧江の頭の良さに気付き、霧江をワンステップ上の、“特別”へと引き上げた。
 もちろん、まだ彼にはたくさんの“特別”がいる。その中で、彼の隣に収まることができるのは、たった一人だ。
 もうすぐこの大学を卒業し、留弗夫は知り合いの伝手で小さな会社を興すことになっている。自分も、その会社に誘われた。留弗夫は霧江を、女としてだけではなく、仕事上においても“特別”の枠へと招いたのだ。
 もうすぐ、もうすぐだ。焦る気持ちを必死にポーカーフェイスで誤魔化して、霧江は笑う。
「もう……留弗夫さんたら。誰かが来ちゃったらどうするの?」
「……誰も来やしねぇさ。……来た方が、燃えるか?」
「やだ……馬鹿。」
 ピンク色の言葉を交わしながら、霧江は留弗夫の首に腕を回す。その瞬間、講堂の扉が勢いよく開いた。
 入ってきたのは、小柄な女だった。ゆるくウェーブした髪の毛を上品に留め、清楚なブラウスにスカートを着こなした、小動物のような女性。両手に抱いた教科書と筆入れが彼女の手を離れ、大層な音を立ててそのまま床に落ちた。顔を真っ赤にした女性は慌てて散らばったペンや教科書をかき集めて、慌ただしく捲し立てた。留弗夫はゆっくりと体を起こし、興ざめだとばかりに溜息をついた。───せっかくいいところだったのに……。思わず舌打ちをしてしまいそうな霧江が笑顔を繕って彼女に声をかける。
「……大丈夫? 午後からこの講堂を使う講義はないはずだけど。」
 かき集めた教科書と筆入れをぎゅっと胸に抱きながら、その女は困ったように眉を寄せて、言葉を失っていた。
「霧江。」
 留弗夫は乱れた衣服をそこそこに整えて、霧江に声をかける。いつもより低い声、明らかに不機嫌そうなのは明白だった。自分もはだけた胸元を直しながらすぐに留弗夫の隣に立つ。未だ、床にしゃがみこんだままの彼女を見下ろしながら、霧江は告げた。
「驚かせて、ごめんなさいね。」
 ぽかんとした顔のままの彼女が何かを答える前に、霧江は先に講堂を出た留弗夫の後を追う。のちの、恋敵とのファーストコンタクトだ。



あきゅろす。
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