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生きる意志(三)
 天保の大飢饉は沢山の人の命を奪うばかりか、人々の心から人間らしささえも奪っていった。
 人々は自分が生き残る為に、周りの人々を平気で犠牲にし始める。
 空腹を紛らわす為に他者から食糧を奪い取り、自分の食糧を守る為に襲い来る他者を殺し、自分の食べる分しか無いのなら平然と他者を見捨てる。

 人々は天保の大飢饉と言う名の地獄を何としても生き残る為に、人間としての心を切り捨てたのだ。

 それは雲丸の住まう村も、例外では無かった。
 特に雲丸と母親は村人達から邪険に扱われていたから、空腹に飢える村人達の格好の標的となって家や畑を散々荒らされた。
 雲丸自身も村に住まう子供達に虐めの対象として扱われ、毎日同じ歳の子供達に責め立てられていた。

 雲丸は三歳くらいになって自我が芽生え始めると、決まって朝早くから外へと遊びに出掛けた。
 家にいるとまたあのぎらついた目をした恐い男達が再びやって来るかもしれないし、何より必死に抵抗しても止める事が出来ない母の惨めな姿を見るのが耐えられなくて、雲丸はなるべく家の中にはいないようにしたのだ。
 だが雲丸が一度外に遊びに出ると、今度は虐めの対象として扱われた。
 家にいれば野獣のような男達に襲われ、外に出れば同じくらいの年端の子供達に虐められる。

 この頃の雲丸には、何処にも居場所など無かったのだ。

 龍鬼が覚えている雲丸として生きた幼き頃は、まさに地獄の日々であった。
「お前の父ちゃんは大悪党だって、僕の父ちゃんと母ちゃんが言ってたぞ!」
「さっさと村から出ていけよ!!悪党家族め!」
「お前らがいるせいで、俺達がこんなつらい目に会うんだ!早く死んじゃえ!!」
 雲丸自身は悪い事など何もしていないのに、周りの子供達からは悪人として見られ、石や枝などの物を投げつけられた。
 そんな地獄の日々に雲丸は耐えきれなくなり、自分の父は何故悪人なのかと母を責め立てた事もあった。
 この時雲丸は初めて母に頬を叩かれ、父を悪く言ってはいけないと叱られた。
 そして母は雲丸を強く強く抱き締めながら、貴方の父は立派な“侍”であったと震える声で語り聞かせてくれた。
 抱き締められていた雲丸は、母の顔をこっそりと覗き見る。
 父の話をしている時の母は、目を真っ赤に腫らしながら涙をぽろぽろと流していた。

 今まで息子の前では一切泣く姿を見せなかった母が初めて涙を見せた瞬間であり、雲丸は最初で最後の母の泣き顔を目蓋の奥に焼き付けた。

 母は自身の全てを懸けて、息子である雲丸を守り抜こうとした。
 男達が食糧を奪いに来れば命懸けで必死に抵抗をし、自分達の食糧が無ければ今までは寄りつかなった村中に行って一軒一軒回って食糧を分けて貰おうとした。
 しかし現実は雲丸の家族に厳しく、家に保管してあった食糧は押し入る男達に好き放題に奪われ、村人は訪ねに来る母を疎ましく思い、どの家を訪ねても食糧を分けて貰えるどころか追い出されるのが常であった。
 雲丸と母が生きていく為の十分な食糧の確保もままならず、母は自分の食べる分を削って雲丸に分け与えた。
 しかし村の男達は食糧を奪う行為を一向に止める事は無く、むしろ悪化の一途を辿った。
 そして遂には家や畑から食糧の類いは一切無くなってしまい、母は完全に追い詰められてしまった。

 そして追い詰められた雲丸の母は、人間である事よりも雲丸の母である事を選ぶ。

 母は最後の決心を胸に秘め、龍鬼の記憶に残る母との最後の日へと繋がっていく。

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