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紅蓮格子、鏡水沈華









雨が降り始めたのは、日付が変わる頃だった。
ぱらぱらと気紛れに遊んでいるかのような雨が、やがて意思を持った集団のようにザーッと音を変えたのを、女は飛ばした意識の中で聞いた。
雨は朝になっても降り続き、目が覚めると開け放しだった格子窓の周辺は木目の色が変わるほど濡れていた。しかし、それを拭くのも億劫だった。窓も閉めずただ雨の落下を眺めていたら、どこかで低く蛙が鳴いた。
雨は時にぞっとする程激しい音を叩き出すのに、作り出す空間はひたすら静謐だ。
まるで世界がここだけしかないように感じる。
いっそそれ以外の世界を拒絶するように、女は雨音に耳を傾けた。
込み上げる吐き気は冷やされた風が癒してくれる。
内に溜まった激情は、雨が肩代わりしてくれているようだ。止むことを知らず降り続ける雨。
真っ直ぐに降り続ける雨を見ていると、ふいに、雨の中に駆け出したい衝動に襲われた。
この雨に打たれれば、自分の体に染み付いた汚れのいくつかは流れ落ちるのではないか。このひどく清廉で無情な雨に打たれれば、少なくとも先程の男が残した白濁だけは、流れ落ちるのではないか。
頭から、肩から、この雨は自分を濡らして。やがて体温までも奪ってくれるのではないか。
そんな淡い期待を雨に見る。
ああ、でも。
狭い格子窓では手のひらさえも通り抜けない。
入り込む細かな滴だけを、冷えた指先に受けた。








雨の落ちる花街の通りには傘の花が無秩序に流れていた。通りの中央をそれぞれの速さで流れては、岸に寄って女を品定めしている。
向かいの見世で一人が揚がった。さながら島に上陸するかのように、見世の中に男は悠々と入っていく。その様子を楓屋二階の廻廊の端、垂れ下がる雨よけの簾の間からアニューは眺めていた。
昼見世が開いてもう一時間程になるだろうか。
激しい雨の日は客が少なくなりがちだ。現に向かいの見世に入っていったのは、たった今アニューが見送った男で三人目。一時間程でその様子なのだから、普段との落差はひどいだろう。

(それでも、来る人は来るけれど)

ぼんやり、雨天特有の呆けた心で思う。
見世が始まる前まで一緒にいたライルは、見世が開くなり一番に買われた。
雨の日はくせがひどくなって困るとぼやいて挿していた簪は、今頃とうに抜かれているだろう。
考えたくもないけれど。
また後で、と言った彼女の声だけをアニューは心の内で反芻する。

また後で。

客がいなくなってくれるまで。

(それまで止まなければ良い)

灰色の空に、祈る。
彼女の喘ぎが男に聞こえなくなる程、激しく降ってはくれないだろうか。
彼女が雨音だけを聞いてこの長い時を過ごせるよう、激しく降ってはくれないか。
雨は遊女達が心の内で殺した涙のようだ。
激しく激しく、流れ落ちていく。
今はただ長く、遊女達の子守唄になればいいと思った。
階下で複数の声がする。誰かに客がついたらしい。






花街を通る一本の川。
轟と唸る水は今、茶色に濁り、嵩を増し、荒れ狂っているというのが相応しい。
岸を削り、土手の木さえも押し流してしまいそうな程の流れの激しさ。
轟轟とした音はまるで男が吼えているようだ。止まり、枯渇することを知らない川はまるで男の欲望のようだ。
自然が引き起こすそれはどうにもできない。
恐怖にただ、街の女達は耳を塞ぐ。






「はっ、っく、」

行灯の灯る薄暗い部屋に今夜響いたのは嬌声ではなかった。況してや悲鳴でもない。否、悲鳴も上げられなかった。
口を大きく開けても、首を絞める両手が呼吸を阻む。

「か、はっ、…ひ、」

呼吸の術がない。酸素がない。開けた口は何の用もなさず、ただ潰れた声だけを発した。
足掻くニールに男はぎらついた目を細めてますます手の力を強くする。
常連の男。
男は押し倒したニールの着物を剥ぎ取るなり腹に跨がり、その細い首を両手で絞めた。

「っ、ふ…っ、ぁぐ、」

もがけばもがく程男はくつくつと笑い薄い唇を嘗める。しかし、その笑い声は意識の遠退きかけるニールには最早聞こえない。
苦しい。
それだけが思考を占める。
聴覚も視覚もはっきりしない。
顎を上げていると零れた涙がこめかみを走った。
ガクガクと全身が震える。
反射的に男の手首を掴むが、元より力のない手で覚束ない動作では抵抗にもならない。ただ男の笑みを深めるだけだ。

「もっと力入れねぇと死んじまうぞ姫様?」
「はっ、く、」

浅黒い手は力の差を見せ付けるようにニールを攻め立てる。
苦しむニールと対照的に、男は愉悦と快楽を得ていた。
ともすれば死ぬかもしれないという境界まで女を追い詰めているのが自分であるという現況が、男に愉悦をもたらす。
この手の内で生命を左右できる優越感。一般民衆として、普段国に支配される側が支配する側となれる一時。自らを絶対者だと錯覚させるこの時。
遊女の苦しむ顔は快楽に喘ぐ顔と重なって見えるのだという。

「や…っ、は、っ、」
「いい顔だ」
「あ、ぐっ、」

かろうじて掴んだ男の太い手首にニールは懸命に爪を立てる。しかし男はますます笑みを深め、脂ぎった顔を寄せるとねろりとニールの涙を舐めた。
その狂った嗜好を質す者も咎める者も他に知る者もここにはいない。
その狂った嗜好をさらけ出し満たす場がこの遊郭だと男達は知っている。
あの赤い門の外と内では、男は違う生き物になる。
行灯を背にした男の影がそのまま己を包み込むように見えた。

「ぁ、…っ、」

瞬間、びくんとニールの体が跳ねる。目の前が白む。
意識が飛ぶ。
その直前に、男はぱっと両手を離した。

「ぅ、げほ、っげほげほ」

突如として舞い戻って来た酸素に思わずニールはむせる。
すると一気に弛緩した体に汗ばんだ男の手がじっとりと触れた。
足を持ち上げる。

「!、」

息苦しさが消えることはない。





雨は川となり海となり世界を繋ぐ。
例えば戯れに触れた一滴が、あの島国にも届いてくれるのかと思いながら。
この身の汚れが流れ行き着いてはいけないと自分は雨を恐れている。




故郷は雨の多い土地だった。
降り注ぐ雨は慈雨となり、柔らかな緑を育てる。
そんな雨の日は花摘みに出掛けられなくなった末の妹の遊び相手となって一日を過ごした。
曇天などはね除けるような明るい妹の声に城の者達はいつも微笑みを浮かべる。
お姉ちゃん、とその声が陰るのを自分は聞いたことがない。
お姉ちゃん。
妹が笑う。
ニール。
父と母の声がする。
穏やかな笑みを浮かべた両親が自分を呼ぶ。
ニール。
窓に叩き付ける雨など遠いもののように温かな空気が自分を包み込む。
ニール。
お姉ちゃん。
ニール。
声が脳裏にこだまする。
それは反響し時を跨ぎ、そして。
低く、実直さを滲ませた声に変わった。

『ニール』

ゆっくりとニールは冷えた指先で左頬に触れる。乾いた涙の跡が固く触れた。

(……エーカー様、)

あのぬくもりを記憶から懸命に手繰り出す。
温かな広い手。
低い声。
そして、別れ際に見た微笑み。
あの瞬間だけは、全てが光に照らされたような気がした。
あの人は他の男達とは違う。
彼だけだ。
この降り注ぐ雨を温めてくれるのは。

だから。


会いたい。


呼んで欲しい。
触れて欲しい。
優しくして、欲しい。


(会いたい、)


たった一つの光。









あきゅろす。
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