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紅蓮格子、鏡水沈華
それは小さな恋にも似た











予約状だと店の女将が部屋に来たのは昼見世の後。客の帰った後で倦怠感にまみれ、布団にくるまって寝ていたライルは不機嫌そうにそれを受け取った。寝転がってきっちりと畳まれた手紙を開くなり、舌打ちしてくしゃくしゃと丸める。

(ついてねぇ…)

書かれていた名はライルの中でも上位を占める嫌な客だった。悪趣味、という言葉が一番しっくりくる男。顔も思い出したくない。

(機嫌取りめんどくせえんだよな)

苛々とライルは寝転がったまま煙管に手を伸ばした。

(ああでも、)

床に入る時間を短くしたいと一人算段を立てる。客によって話の調子を変えるのもライルの遊郭で身を守る方法だ。当然他の女からはよく見られないがライルはそれに構いもしない。うまく生きるには仕方のないことだと思う。

(惨めに抱かれるのだけは御免だ)

ライルは煙管に火を入れようと背を伸ばす。すると煙管に入っていた灰がほろりと畳に落ち、ライルは唇を尖らせて丸めた手紙で拭った。








見世がわずかに活気付き始める頃、五人の女が磨かれた廊下を足音を立て歩く。柄の少ない二枚重ねの着物を着ているのは遊郭お抱えの芸妓である証だ。何枚も鮮やかな着物を重ねる遊女と違い、遊郭にいても芸妓は花を売らない。女達はそれぞれ手に楽器や扇子を持ち、談笑を交えながら歩いていた。
その中で、一番後ろを三味線を抱えて歩いていた長身の女に、前を歩いていた一人が振り向きながら声をかける。

「あなたは?」
「え、」

談笑に笑みを返しながらもどこかぼんやりしていた女は、ぱちりと瞬きした。

「あの人のお座敷、出たことある?」
「あ、」

女は今向かっている先を思い浮かべて首を横に降る。

「ありません」
「そっか」
「あなただけね」

女達はひとつの話題に花を咲かせていた。
ぼんやりしていたことを反省して女も話に耳を傾ける。

「私嫌いよ、あの人」
「私も」
「客だけに態度が違うのよね」
「見下してるのよ」
「『お姫様』だからね」

『お姫様』。
それが今から彼女達が向かう座敷の花である。
花街の中で知らない者はいないほど有名な彼女は、同じ見世にいても座敷に出ない限り滅多に見ない。噂や評判、こうした陰口は幾らでも聞くが、女も見たことがなかった。

「……そんなに、悪い人なんですか?」
「会えばわかるわよ」
「そうそう」

女が納得のいかないような顔をすると、すぐ前を歩いていた女が笑った。

「あなた優しいものね、アニュー」

薄菫色の髪を揺らして彼女は歩く。








重い着物を引きずって、ライルは廊下を歩いていく。前を歩く女将は気前の良い客に上機嫌で、ライルが気乗りしないように足を運んでいても気にしなかった。

(めんどくせえ、)

太鼓や三味線やらが鳴る部屋に近付くに連れてますます面倒臭さは増していく。それでも断るわけには当然いかず、とうとう豪勢な襖の前に来てしまった。
ちゃんとおやりよ、と小声で言う女将に適当に返し、膝を着いた。

(早く終わらせてやる)

伏し目に手を着く。




座敷では芸妓達が囃子を奏でる中、遊女が後から入室する。その遊女の登場を客だけでなくアニューも待っていた。純粋な興味がそこにある。
いよいよその時になって、アニューは三味線を引きながらも襖に視線をやった。


お待たせしました。
女将の声に続いて、襖が開く。


「失礼します」

凛とした声が囃子の音にも際立って聞こえる。
床に手を着き頭を下げた遊女の姿を座敷から溢れる光が照らした。

「登楼頂き、ありがとうございます」
「来たか」

音の中に低い男の声が加わる。顎を擦りながら舐めるように遊女を見ていた。

「今宵は、」
「お前は敬語でない方がいい」

遊女の言葉を遮るように男が口を挟む。途端、遊女はきゅっと口を引き結び。

「―――そうこなくちゃ」

にっと笑った顔を遊女は上げた。
栗色の髪に、青い瞳。光の当たる顔は気品に満ちている。

(綺麗な人、)

まじまじと見つめるアニューの視線に彼女は気付かない。

「早く来い」

男の声に従い、畳の縁を踏まないよう彼女はまっすぐに歩く。



会いたかったぞ。
忘れられたかと思った。
姫様を忘れるわけがないだろう。
他の女の所に行ってたんじゃねぇの?
まさか。
妬けちまうよおれ。
相変わらずだなぁ、姫様。



なるほど、とアニューはひとりごちた。女達が言っていた通り遊女は客に向けよく笑う。煙管を片手に酒を注ぎ、ずっと男と談笑を交わしていた。上機嫌な客の手が彼女の腰を擦る。

(悪い人、なのかしら、)

ついじっと見ていると、気付いた隣の女が密かにつつき、はっとする。あまり気を抜いてはいられないとアニューはもう一度しっかり三味線を握り直した。





(相変わらず酒飲みだ)

ライルは内心ため息をつく。場も華やぎ次々と男は盃を舐めた。煙管を吹かしながらライルは笑って注いでいくが、実際のところあまり酔わせたくない。後が大変になることを知っている。

(厄介だな)

そう思いつつ酒を注ぐ。






夜も更け銚子が4・5本転がった頃、男はライルに触れ始めた。

(始まったか、)

ふうっと長く煙を吐き出して、首筋に顔を寄せた男を見る。

(まぁ、長く持った方か、)

そう思った時。
びん、と何かが弾ける音がした。
男がいぶかしんで顔を上げる。
その視線の先。

(―――まずい、)

芸妓の持つ三味線の弦が切れていた。





突然弾けた弦にアニューは目を見張る。上下に切れた弦が間抜けにも外に突き出ていた。
普段の練習にも使っているせいで疲労していたのが原因だ。だが、あまりに突然のことにアニューは困惑し慌てて突き出た弦を押さえる。

(どうしよう、)

仲間までもが顔を青くしてアニューを見つめ、室内は静寂に包まれた。

「面白いことしてくれるなぁ」

酔った男の声が響く。
びくりとアニューは肩を振るわせ、旦那さん、と遊女が囁くにも関わらず男は遊女から手を離してゆらりと立ち上がった。

「楽器の管理もできないのかい」
「っ申し訳ありません、」

あたふたとアニューは三味線を横に置き、畳に手を着く。
近寄る男に隣の芸妓達も身を引くばかりで、アニューの助けに回る者は他にいない。
とん、と遊女が煙管で煙管盆を叩く音を聞き、この場で一人見放されたと悟った。

「なってないなぁ」
「すみません、どうか、」

ばっと頭を下げると、男はまたゆらりと近付いた。

「躾が必要だな」

周りの女達が息を飲むのが聞こえ、男がすぐ手前まで近付く。布擦れの音と共に、顔を真っ赤にした男は懐から鉄扇を取り出した。

「顔を上げな」

びくびくと頭を上げるアニューを男は笑って見ている。

「仕置きだ」

畳まれたままの鉄扇が、男の腕から振り下ろされた。

(叩かれる……っ!)

ぎゅっと目を閉じて咄嗟に腕で顔を覆う。


カッ、と、鈍い音が部屋に響いた。




しかし、アニューは疑問を感じることになる。

(………え、)

すくませた身に、なんの衝撃もこない。

(どうして、)

アニューが恐々と目を開けると、そこには―――細い背中があった。


「……困るね、旦那さん」

凛とした声が響く。

はっとアニューは赤い目を見開いた。

「おれ呼んどいて、他の子に手出すのか?」

そこにいたのは、遊女。
左膝を立てかばうようにアニューの前に座り、右手に持った煙管が金属の部分で鉄扇を受け止めている。

「酷い人だね」

軽く眉をひそめて遊女は笑う。意図的に艶を出した声だった。

「他の女の所に行かれちゃ妬けちまう、ってさっき言っただろ」

ずい、と男の方に身を乗り出す。

(乗ってこい、)

祈るように思い、ライルは男を見上げた。
芸妓が傷付くのだけは見たくなかった。

男は不機嫌そうに顔を歪めると、やがてライルの体勢に気付きにやりと笑った。
勢いよく動いたせいで胸元がはだけ、膝を立てたせいで足も合わせが開いて腿まで露になり、垂れた赤い大きな帯がかろうじて秘部を隠している。あからさまな誘いに男は愉快そうに乗った。鉄扇を握った手を下ろし、変わりに煙管を握るライルの手首を掴んだ。

「そうだな、」

アニューは息を飲む。

「悪いことをしたなぁ、お姫様」

男は、視界からアニューを外した。
膝を着き、視線も気にせず曝されたライルの胸に手を伸ばす。
ふぅ、とライルが息をついた瞬間、アニューは体の力が抜けた。

(助けて、くれた、)

アニューは半ば呆気に取られじっと正面の背中を見る。自分の前に座り顔の見えない遊女。

「……ぁ、」

(何か言わなくちゃ、)

「あの、」

小さなアニューの声に、遊女は少しだけ振り向く。
すると。
ふ、と柔らかい笑みを浮かべた。

(え、)

どきりと心臓が音を立て、アニューは目を丸くさせる。

「……旦那さん、」

遊女は顔を戻し、切なげな声をあげた。

「ふたりっきりにしてくれよ」

抱き寄せるように胸元にある男の頭を両腕で包む。
もう男は完全に遊女の上半身をはだけさせていた。

「独占欲が強いんだって、おれ」
「可愛いなぁ、姫様」

そっとライルが煙管を置くと、男は顔をうずめたまま言った。

「さあさあ、芸妓は出て行った」









閉じた襖の前で、三味線を抱えアニューは立ち尽くす。


「大丈夫?アニュー、」
「怖かったわね」
「何もあそこまで怒らなくてもいいじゃない」

口々に女達が小声で言い騒ぐが、アニューの心はここにはない。

(………あの人、)

凛とした声、しゃんとした後ろ姿、煙管を握る白い手。ふ、と見せた柔らかい笑み。
アニューは俯いて瞳を揺らす。

(私を助けてくれた、)

すぅっと何かが胸に溶けていく。
襖の向こうに聞こえる小さな声を、アニューは三味線をぎゅっと抱えて目を閉じて聞いた。










(最悪だ、あのクソ親父)

ちっ、とこぼれる舌打ち。
散々抱いた後気を遣ったライルをそのまま放置して男は帰ったらしい。乱れた布団の上に、乱れた髪と最早絡まっているだけの着物をまとったままライルは仰向けに寝ていた。帯でかろうじて絡まっている着物は用をなさずただ足の下敷きになっているだけで、何も通っていない白い腕をライルは持ち上げ顔を覆った。
苛々と眉を寄せてきつく目を閉じる。体のあちこちがじんじん痛み再び舌打ちをした。

(……起きたくねぇな)

ふうっと長い息を吐き出したその時。

「あの、」

控え目な小さな声がした。
予想外ではあったが気だるい心は大して驚かず、ライルはゆっくり片手を顔の横に下ろすと襖の方を見る。

「よろしいですか、」

若い女の声。

「……なに?」

発した自分の声はひどく掠れていた。

「……あの、」

軽い布擦れの音がする。

「昨夜は、ありがとうございました、」

柔らかく、親近感を醸すような声。
ライルの脳裏にふと昨夜の薄菫の髪をした芸妓が浮かぶ。
彼女の驚いた顔は鮮明に記憶に残っていた。

「……ああ、」

ライルは誰に見せるでもなく目を閉じて笑う。

「あのクソ親父、マジ意味わかんねぇよな」

冗談めかして口にする。しかしその声に微かに悲嘆が入っていたのを自分でもわかった。
いきなりの暴言に驚いたのか、やや間が空いてからかすかな笑い声がライルの耳に届く。

「そんなこと、おっしゃられるんですね」

くすくすとした笑声が心地よく、ライルは目を閉じ腕を広げた。

「おかしい?」
「いえ、びっくりして、」
「可愛いね、あんた」
「そんなこと、」

照れたのか慌てた口調にくすりと笑む。

(いつ以来だ、こうやって話すのは、)

自然と肩の力が抜けていく。

「……本当に、ありがとうございました」

「…いや、今度は気をつけろよ」
「……優しいんですね、」

立ち去るのか、と思ったその時。

「ライルさん」

(……え、)

その一言に心臓が跳ねる。

(今、)

呼吸するのも忘れ、ライルは目を見開いた。

「っ、今なんて!?」

勢い良く起き上がると、バン、と思い切りライルは襖を開けた。

いきなり出てきたライルに同じくらいアニューも目を見開く。しかも上半身に何もまとっていない白い体に、アニューはあたふたと頬を染めた。

「っ、あの、着物!」
「いいからっ!」

叫ぶように言い放され、ずい、と顔を近付けられる。

「今、おれのこと、」

至近距離の青い瞳が動揺に揺れている。場違いにもアニューは綺麗だと思い、それを知らず声まで震わせてライルは続けた。

「ライルって、言ったのか、……?」

語尾に向け小さくなる声。
きょとんとアニューはライルを見た。

「あ、いきなりファーストネームは失礼ですよね、っ、」
「そうじゃなくて!」

ぐい、とアニューの手を握る。

「なんで、」

きゅっとライルは眉を八の字にし、座敷にいた勝ち気な遊女とは思えないほど泣きそうな目でアニューを見つめた。

「おれの名前、知ってんの、」
「…………」

ひどく幼い顔にアニューは僅かに頬を染めたまま釘付けになる。

「……ご存知、ないと思いますが、」

見開いていた目を伏し目がちに、アニューは視線を下げた。握られた手を見る。

「私、あなたと同じ時にここに来て、たまたま見たんです」

一年ほど前の出来事をアニューは思い出す。
来たばかりで店に不慣れだったアニューは、偶然女将と店の男との会話を聞いた。
遊郭では見世先に遊女の名を書いた札を提げる。客を取った遊女の札を裏返しすることで買われたことを示すのだが、男はその札を持って女将と会話をしていた。

女将さん、お姫様の名前、提げないんですか。
提げなくたって、みんな知ってるわよ。それに、札なんて裏になったままでしょ、あの女は。捨てなさい。
なるほど、わかりましたよ。

くつくつと笑って男はそれを捨てた。
好奇心で、アニューはそれを見たのである。

「……あの、」

回想して、アニューは心を痛める。

『双子のお姫様』って立派な名前があるのに、誰が名前なんて呼ぶと思うの?

女将の声。
きっと女将すらも目の前の遊女の名は知らない。やって来る客はもちろん、店の誰も知らない名前だ。唐突に呼ばれて気を悪くしたかもしれない。両親がくれた大切な名前なら、なおさら。

「……呼んでは、いけなかったでしょうか」

緩く眉を寄せて俯くと。

「……いや、」

すっと顔の横に手を添えられ、顔を上げるようにされる。つられて視線を上げると端正な顔が間近にあった。

「嬉しい」

綺麗に、彼女は笑った。
思わず頬を染め息を飲む。

「なぁ、」
「……はい、」
「呼んで、呼び捨てでいいから、」

(………ああ、)

そっとアニューは頬に添えられた手に自分の手を重ねる。

(綺麗で、孤独な人だ、)

ほんの少し口を開けてためらった後、柔らかな声で呼んだ。

「……ライル、」
「……うん、」

すっとライルはその声を染み込ませるように目を閉じる。

(久しぶりだ、)

姫様。姫さん。妹様。
最後に名を呼んだのは姉だった。
それからもうずっと、呼ばれていない。
ずっと、ひとりだった。
アニューの手が温かい。

冷たい遊女の手を強くアニューは握る。
アニューの目に映る、目を閉じて軽く唇を噛むライルは、想像よりもずっと違った。

(噂なんて間違ってる)

『双子のお姫様』。
閉じた襖の中で、黙って抱かれ、彼女は戦っている。

(こんなに、優しいのに)

「ライル」

水滴のようにその声は緩やかな波紋を作り二人の間に溶け込んでいく。

「なぁ、」

掠れた声で、ライルは言った。青い目は光を湛えて上目遣いにアニューの赤い目をとらえる。

「アニューって、呼んでいい?」
「え、」

―――教えていない。

ぱちりとアニューがまばたきすると、ライルは笑った。

「え、あ、どうして?」
「驚いてばっかだな」

くすくすとライルは笑う。
教えていないアニューの名前。

「どうやって、」
「可愛い子なら、名前覚えてる」

ぱち、とウインク一つ。冗談めかした笑み付きで。
アニューは瞑目し、呆気に取られた。

「……見世の人の名前、全員、わかってるの?」
「さぁ?」

わかって、いるのだろう。
『見下している』と影で罵られている彼女が。

(噂なんて嘘ばかり、)

頬を染め、アニューは笑った。

(優しい人)

「可愛い子限定で名前覚えているなら、」
「ん?」
「私もそうだったみたいです、ライル」
「……ははっ、」

朝の空気が二人の笑声を包む。
握った手の温かさが、いつまでも離れなかった。






それは小さな恋にも似た出会い。











あきゅろす。
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