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暑さが漸く和らぎ始め、朝晩は風がひやりと冷たい。肌寒くて啓人は露出したままの腕を擦った。
明日から新学期だ。夏休みが終わることを残念だとか、嬉しいだとか思ったことはない。
ただ、長時間家にいなければならない息苦しさから開放されるのだと思うと少しだけ気が楽になった。学校は好きでも嫌いでもない。

啓人の通う高校は県内でも有数の進学校だ。1年生の頃から受験を視野にいれた授業があり、2年生の2学期になれば本格的に受験勉強が始まる。
夏休みに入る前にあった進路希望調査票には就職希望と書いて提出した。かなり異例なことだと担任は言い、それで本当に良いのかと聞いてきた。兎に角早く井口から出て行きたかった啓人は、頷いた。早く自立して、監獄のような家から出てしまいたい。

だが8月中旬に交わした鷹野の言葉を思い出して啓人は、どうしよう、と呟いた。






離れには簡易なキッチンがあるため食事は基本的に自分で作るのだが、あまり食に対する執着がない啓人は度々食事を抜くことがあった。

その夜は、鷹野が母屋のほうから調達したであろう2人分の食事を持って離れにやってきた。啓人と鷹野自身の分だ。
鷹野は時折、啓人と共に食事を取ることがあった。特に夏休みになってから頻繁に訪れるようになっていた。肉付きがいいとは言えない啓人がほんの少しだけ太ったのはおそらく鷹野のせいだろう。そして啓人は密かに鷹野と共に食卓を囲むことを、楽しみにしていた。1人だけの味気ない食事が、鷹野と共にすることで数段美味しく感じられるからだ。

「啓人さん、ご一緒してもよろしいですか?」

「あ、はい、どうぞ…」

扉を開けて、鷹野を部屋の中へ招く。啓人は冷やしておいた麦茶を、慌ててコップに注ぐと並べられた食事のそばへ、そっと置いた。

「あ、啓人さん、ありがとうございます。こんなこと私がしますよ。次からは言ってくださいね。」

「い、いえ、これぐらいなら僕がします、から…」

皿を並べ終わった鷹野が手を止めて礼を言うのをくすぐったく思いながら、啓人は役に立てた事が嬉しくなった。
準備ができた夕食を前に両手を合わせて、食事を開始する。2人の間には特に会話はないけれど、啓人にとって嫌な空間ではない。しゃべらなくてもいい事を許されている、そんな空間。カチャ、と食器が立てる音が静かに響くだけだ。

「啓人さん。」

食事も終わりかけたとき、鷹野がそっと啓人の名を呼んだ。

「高校を卒業されたらどうするのですか?」

「…僕は、ここを、でます。就職、する予定、です…。」

顔を上げた啓人は、鷹野が既に食事が終えていることに気づいた。片手に箸を持ったまま、啓人は以前から決めていたことを鷹野に伝えた。もしかしたら亮一郎にこのことを聞けと命令されているのかもしれない。いや、ここを出て行く確認だろう。
卒業すればこうして鷹野と出会うこともなければ、食事を一緒にすることもなくなるのだと啓人は気づいた。ツキン、と胸が痛んだ。

「啓人さんは…、啓人さんさえよければ卒業後私と一緒に暮らしませんか?」

「…え?」

「啓人さんと一緒に暮らしたいんです。」

まっすぐ、射抜かれた。あの獰猛な光が鷹野の瞳の奥に見え隠れした。いかがですか、と問いかける鷹野の声はいつもよりずっと優しく、甘い。なのに啓人を見つめる瞳だけが鋭く、目を逸らすことができない。まるで拒否することを許さないとでも言うような、そんな目。

啓人はまるで金縛りにあったかのように動けなかった。一緒に暮らす。自分と鷹野が。
どういう意図があるのか啓人には分からなかった。亮一郎の命令なのだろうか。ならば、何故。グルグルと頭の中をめぐるのはそんな疑問。

「できれば啓人さんには進学していただきたいと思います。あれだけの成績なのですからどこにでも入学できるでしょうし。勿論、費用は私が全て出しますから。」

「あ…、」

なんとか返事をしようと発した言葉は、掠れて言葉になっていなかった。断るべきなのか、受け入れるべきなのか。啓人にはとっさの判断ができなかった。そんな啓人に鷹野は苦笑して、スッと目線を外して頭を下げた。

「急すぎましたね。すみません。ですが、考えて頂けますか?」

まるで呪縛から解けたように体の力が、ふ、と抜ける。はい、と何とか返事をして啓人は食事を再開した。





結局未だに啓人は鷹野に返事をしていない。当初の予定通り就職するならば鷹野にはっきり告げなければならない。もし、鷹野と一緒に住むことになれば、進学するとなれば2学期からは本格的に受験勉強をしなくてはならないだろう。どっちにしろ早く答えを出さなければならず、啓人は困り果てていた。

就職し、この家から出て行くことは兼ねてからの啓人の目標だった。1人で生きていける力があるのならすぐにでも出て行きたいぐらいだ。だが、金銭的な面を考えるとどう足掻いても1人暮らしは難しく、ズルズルと井口に世話になっている。

井口の家から出ることに未練があるのは鷹野に会えなくなるからだ。ただ1人、啓人を人間として扱ってくれる人。
学校でも啓人は浮いた存在だ。父親は暴力団の組長で、母親は水商売の人間。さらに啓人は母親に捨てられた子供なのだ。多感な時期の高校生に啓人の扱いは難しいのだろう。存在がないかのように無視をされる。だが、それが啓人にとっては有り難い。どうせ禄に会話もできないのだから放っておいてくれたほうが、気が楽だ。
啓人は独りでいることに慣れすぎていて、人との関わりをどうやって取れば良いのか分からなかったし、また分かろうともしなかった。

そんな啓人の前に現れた、鷹野一成という男。啓人に何を求めるわけでもなく、ただ静かに傍にいてくれる人。
初めて、啓人自ら傍に居たいと思った。親にも友達にも得なかった感情を鷹野に感じる。
だから。だから、卒業と同時に鷹野と会えなくなるのは、寂しい。そう、寂しいのだ。二人で過ごしたほんの僅かな時間。たくさん喋ったわけでも、たくさん笑いあったわけでもない、静かに過ごしただけなのに。啓人にとっては幸福な時間だった。

だから啓人は未だに答えを出せないでいる。鷹野の傍にいたい。でも、そんなこと許されるわけがない、と啓人は漠然と感じていた。親にさえ捨てられた自分を必要としてくれる人間がいるはずがない。いたとしても、また捨てられるかもしれない。
鷹野の手を取ったとしても、いつかいらないと言われる日が来ると思うと啓人には怖くてたまらなかった。
それならば断ってしまえばいい。卒業して、就職するのが一番だと思う。そう分かっているのに啓人は未だに鷹野にはっきりと返事をしていなかった。




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あきゅろす。
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